学生の就職活動では、採用に至らなかった際の企業の対処方法が問われることがある。
その学生は入社希望者でありつつ、市井の消費者でもあるからだ。下手な対応によって心象を損ねることで、将来の顧客を失ってしまうことも。場合によってはクレーマーになってしまう可能性も考慮しなければならない。
プロ野球の世界でも似たようなケースがある。指名を検討し、結局指名しなかった(できなかった)選手が、将来その球団に牙を剥く可能性がある。特にその当事者になることが多いのが巨人だ。ドラフトのドラマが生み出した「巨人キラー」を振り返ろう。
第1回ドラフト会議が行われた1965年。この年、センバツ大会で優勝投手になったのが岡山東商高の平松政次だ。当然のように各球団、平松獲得に興味を示した。その中でも、熱心だったといわれるのが巨人。平松自身へのアタックだけでなく、岡山東商高の監督や部長、平松の下宿先などにもアプローチをしかけ、平松の1位指名を訴えた。
ところがドラフト当日。巨人が1位指名したのは甲府商高の堀内恒夫。平松は中日の4位指名を受けたがこれを拒否し、社会人野球の日本石油に入社した。
社会人野球で実績を残した平松に対し、巨人は翌年のドラフト(※まだ社会人選手の「縛り期間」ルールがなかった)でも指名を検討。当時の投手コーチだった藤田元司まで乗り出す熱の入れようだった。平松はこのラブコールに対して「1位で指名されたら入団します」と答えた。
ところが、実際のドラフト会議で巨人が1位指名したのは立教大のスラッガー、槌田誠。平松は大洋から2位指名され、「そんなに俺が信用できないなら、大洋に入って巨人をやっつけてやろう」とプロ入りを決断した。
その後、平松は通算201勝を挙げる大投手に成長。特に、その4分の1にあたる51勝を巨人から奪い、史上最強の巨人キラーぶりを発揮した。
1968年の第4回ドラフト会議で、もっとも評価が高かったのが法政大の田淵幸一。東京六大学リーグの本塁打記録を大きく更新し、世間の注目度も高かった。
そんな田淵と「相思相愛」といわれていたのが巨人。ただ、予備抽選の結果、巨人の指名順序は8番目。結果、指名順3番目だった阪神が「田淵指名」を強行した。
田淵を諦めきれない巨人は、ドラフト後にトレードによる田淵獲得を画策したが、阪神側がこれを拒否。当初は入団を渋っていた田淵も、最終的には阪神への入団を決めた。
その結果、「巨人キラー」田淵幸一が誕生。田淵は1973年に「巨人戦7打席連続本塁打」という記録を樹立。1975年には43本塁打で初タイトルを獲得し、巨人・王貞治の14年連続本塁打王を阻止した。
1978年にトレードで西武に移籍した田淵。移籍4年目の1982年には悲願の優勝も達成。そして、1983年には因縁の巨人を倒し、2年連続で日本一を経験している。
上述した1968年のドラフト会議で田淵を指名できなかった巨人。そのドラフトの影で、「田淵を他の球団が指名したら君を1位指名する」と口約束を交わしていたのが明治大の星野仙一だった。
ところが、田淵を逃した巨人が実際に1位指名したのは島野修(武相高)。星野は思わず、「“ホシ”と“シマ”の間違いではないのか?」とつぶやき、ここから「打倒巨人」の野球人生が始まったのだ。
「燃える男」の異名通り、巨人戦で特に燃えた星野。対巨人戦を通算35勝31敗と勝ち越し、見事な「巨人キラー」ぶりを発揮した。また、因縁めいていたのが1974年だ。この年、中日は20年ぶりのリーグ優勝を達成し、巨人の「V10」を阻止。その優勝の瞬間、マウンドにいたのは星野だった。