「衣笠(祥雄)はね、何度もデッドボールを受けても絶対に怒らないの。そして、どんなにも痛くても必ず試合に出るの。それだけ我慢強い人なのよ。だから、あなたも衣笠のように我慢強い子どもになりなさい」
2016年9月9日。25年ぶりに訪れるに違いない明日の広島の優勝を期待し、興奮する気持ちを抑えながら眠りにつく前、男は母親に言われた言葉を思い出していた。
母親のその言葉がきっかけで、東京に生まれ育ちながら広島ファンになった男。巨人の野球帽をかぶる友人のなかでひとり人赤い帽子をかぶる変わった少年。それが彼であった。
1991年に優勝したときは小学6年生。それから25年間も優勝から遠ざかるとは微塵も思っていなかった。
母親に注入された“衣笠イズム”で、強い時も弱いときも忍耐強く広島を応援し続けてきた。そんな少年も気づけば、30代後半。流れる歳月にあらためて驚きを隠せない。と、同時によくここまで応援できたものだと、自嘲気味にひとり笑いを浮かべているうちに9月9日の夜はふけていった。
朝、興奮する気持ちを必死に押し殺し仕事に向かうカープ中年。
仕事が終わるのは定時で17時なのに16時前には東京ドームかに着いていた男。優勝までのマジックを1とした広島を理由に職場放棄したのだ。
「カープでクビなら本望じゃ!」
それは、偽らざる本心であった。
彼のように職場放棄してまで来たファンも多くいただろう。優勝への期待感で、東京ドーム全体が異様な雰囲気を醸し出していた。
優勝への異常な期待感が高まるなか試合開始。広島の先発は黒田博樹。広島を優勝させるためにメジャーから帰ってきた男が、優勝決定戦で登板する。この劇的すぎるシチュエーションもまた、ファンの高揚感を煽った。男も当然、黒田での優勝を一番に望んでいた。
黒田は初回、いきなり先制を許す苦しい展開。しかし、1球ごとに起こる大声援で立ち直り6回を3失点と、試合を作った。4回には故意にも見える死球を投じた、巨人の先発・マイコラスに激昂するなど、チームとファンを鼓舞。優勝決定戦でも変わらず“黒田らしさ”を発揮してくれた。
「カッコイイ…」
その姿に男は思わず、口に出していた。
黒田の男気にすでに目頭を熱くしながら、試合は広島リードで進む。回が進むごとに近づく優勝。その現実にファンの声援はさらに音量を増す。
例外なく、普段は静かに試合を見守る男もこの夜ばかりは仲間達と大声援を送っていた。
アウトを1つ取るごとに優勝が近づいてくる。男はかつて見た試合を走馬灯のごとく思い出していた。
弱小時代、栗原健太のホームランに歓喜した神宮、わずか8,000人ほどの横浜スタジアムで見た前田健太のノーヒットノーラン…。
色々な名シーンを見てきたが、今この瞬間、それらをはるかに超える喜びが待っている。そう思うと、嬉しい反面、パニックにもなってきていた。
試合は9回。あと2つのアウトで優勝が決まるその時、男はおもむろにカバンのなかにあったメロンパンを無心に頬張り始めた。25年も待ちわびた優勝の瞬間が目の前にあるにも関わらず、喜び方がわからなくなり、そこから目をそらそうとしてしまったのだろう。そして、優勝シーンよりもパンを選ぶという怪行動に出てしまったのだ。
周りの友人にいさめられ、なんとかメロンパンを口から離した男、危うく優勝の瞬間を見逃すところであった。それほどまでに人の心を狂わせる優勝。25年という時の長さを痛感したシーンだった。
試合はついに9回ツーアウト。最終打者が内野ゴロに倒れた瞬間、広島東洋カープの25年ぶりのリーグ優勝が決まった!
かつて、これほど体の底から湧き上がる喜びを感じたことがあっただろうか? 今まで、様々な優勝チームを見送ってきて25年。強かった広島が弱くなって20年以上が経った。それでも、野球から、広島から離れようと思ったことは一度もなかった。毎年優勝を信じ、心の底から愛し応援してきた広島。その広島がついに優勝を決めたのだ。
黒田が感極まり、涙を流していた。それを見た時、男の涙腺も崩壊。周りのファンと抱き合い喜びを分かちあった。
30代後半の彼も、酒を飲める年になってから初めての優勝だった。産まれて初めて味わう美酒に酔いしれながら、宴は朝まで続いたのはいうまでもない。
とにかく、優勝を決めてくれた選手たちには心の底からありがとうと言いたい。そして、次は日本シリーズを制して、日本一の旨酒を酌み交わしたい! そう切に願っている。
文=井上智博(いのうえ・ともひろ)