◎意外な類似点とは?
〜別々の場でユニホームを脱いだヤクルト最後の日本一戦士〜
ヤクルトが最後に日本一になったのは2001年。いまから12年前のことだ。その時の日本シリーズでショートを守っていたのは宮本慎也、エースは石井一久だった。そして今年の10月、2人はともにユニホームを脱いだ。かつて野村克也氏がヤクルトの監督だった時代に入団した2人は、野村監督の指導の下で成長し活躍した選手。しかし、その野球人生は全く別のものになった。
宮本慎也はヤクルト一筋19年。地道に守備を磨き、守備の名手としてゴールデングラブ賞を10回受賞。また2004年、2008年にはオリンピック代表に選ばれ、キャプテンなどを務めた。そして2012年には2000本安打を記録し、名実ともに球界を代表する内野手となった。
かたや石井一久はヤクルトに10年在籍した後、メジャーに移籍。3年後、再びヤクルトに復帰し、2008年からは埼玉西武ライオンズで活躍。日米通算182勝を挙げ球界を代表するサウスポーとなった。
ヤクルトという同じ地点からプロ人生をスタートさせながら別々の道を歩んだ2人が奇しくも同じ年に引退を迎えることになったわけだが、その生き様は意外にも類似点が多い。その類似点にこそ2人の活躍に秘められた真実なのである。今回このコーナーでは、その意外な真実について解説していきたい。
【名手・宮本慎也は偶然の出会いからでき上がった】
なぜ宮本慎也という球界を代表する遊撃手は生まれたのか? その問いを解く鍵は出会いにある。PL学園、同志社大、プリンスホテルを経て1994年ドラフト2位でヤクルトに入団した宮本慎也にとって、最初の大きな出会いは高校時代だった。
PL学園に入学後、監督から中学時代まで守っていたセカンドからショートに移るように言われたこと。当時監督だった中村順司氏もショート出身。それだけにショートの指導は他にも増して厳しかったはずだ。しかも野球エリートが集まるPL学園で、決して手を抜くことは許されない。その厳しい環境がその後の宮本を作り上げる土台になったといっても過言ではないだろう。
プロ入団後、宮本はすぐに守備の名手として有名になったわけではない。実はその転機になったのが入団4年目の1998年のこと。前年の1997年オフに起こった脱税問題で宮本は、1998年の開幕から1カ月出場停止となった。その時、当時ヤクルトの大橋穣2軍コーチと出会ったことが大きかったようだ。大橋コーチから土のグラウンドでの練習の重要性を教えられた宮本。人工芝の多い1軍のグラウンドに慣れていた宮本にとって守備を見直す絶好の機会となったのだ。それが1999年から2003年まで5年連続でゴールデングラブ賞受賞へとつながっていく。
【遊撃手の本当の姿とは】
では宮本は守備の名手ということで一流になった選手だろうか。ここで宮本の打撃についてスポットを当ててみよう。
2001年に世界タイ記録でもあるシーズン最多の67犠打という日本記録を打ち立てるなど、打撃では控えめな印象のある宮本だが、実は打撃も凄いのだ! 入団5年目の2000年に初めて3割を超えると、その後6度の3割超え。中でも2011年、41歳で打率3割を超える成績は史上4人目の快挙となるなど、年を重ねるごとに打撃力がアップしているのだ。
では2人の類似点とは何か? 皆さん、もうおわかりだろう。ケガや事故といった不足はすべからく偶然に訪れる。また移籍など環境の変化はわかっていても、すぐに適応させるのはなかなか難しい。しかし宮本慎也と石井一久には、どんなイレギュラーに対してもすぐに対応するスピードの早さがある。そこが2人の凄さの秘密なのだ。
ではヤクルトが12年もの間優勝から遠ざかっていることに対してはどうだろう。かつてヤクルトの黄金期を支えた2人には、それもイレギュラーのはず。となれば2人がヤクルトに戻ってきたとき、この負の歴史をどう変えるのか、ファンならずとも期待したくなる。もしかしたらそんな日が来るのも遠い将来ではないかもしれない。
参考文献…『遊撃手論』(久慈照嘉監修、矢崎良一箸/PHP研究所)
■ライター・プロフィール
ゆきやす…1966年愛知県一宮市生まれ。野球部経験ゼロの元ナゴヤ球場アルバイトキャプテン(大学時代6年間在籍)。卒業後、出版社勤務を経て、現在編集・ライティング・校正業へ日々精進中。野球をはじめとするスポーツの面白さを伝える新たな編集道を毎日模索中。