高校球児コース別プロ入り物語 セ・リーグを盛り上げる2人のエース。歩む道は違えど共通点も
交流戦真っ只中。毎年パ・リーグの強さをまざまざと見せつけられているが、今年こそセ・リーグが勝ち越し、ファンは留飲を下げたいところだろう。
その心のよりどころのひとつが、各球団のエースの存在。特に菅野智之(巨人)は驚異の防御率0点台をキープ中。交流戦初登板となった6月3日の日本ハム戦でも、7回1失点9奪三振の好投を見せ、シーズン5勝目を挙げた。
また、日米通算200勝に迫る黒田博樹(広島)にも注目が集まっている。日本球界復帰2年目の今季も第一線で活躍し、4月2日の巨人戦では完封勝利をマーク。41歳での完封はチームの大先輩・大野豊らに次ぐ4人目の記録で、まだまだその実力は健在だ。
今回は菅野と黒田のアマチュア時代からのキャリアを振り返りながら、ふたりの邂逅も探りたい。
宿命のエース・菅野智之
祖父が原貢氏で、伯父が原辰徳氏。泣く子も黙る球界のサラブレッド。菅野と言えば、避けては通れないのがその出自だ。
三池工(福岡)を甲子園優勝に導き、その後も東海大相模高(神奈川)、東海大の監督としてアマチュア球界に影響力を持った祖父。祖父の指導で実力を伸ばし、巨人の4番・監督の役割を全うした伯父。彼らの偉大なるDNAを受け継いだ菅野は、幼少期から投手として成長していった。
東海大相模高では甲子園出場こそなかったものの、最速148キロを誇る剛腕として名を馳せた。東海大でも下級生から主戦を張り、大学日本代表メンバー入りを果たす。3年時の世界大学野球選手権では、キューバ代表の主砲だったアルフレド・デスパイネ(ロッテ)に157キロの速球を投げ込み、今でも語り草となっている。
周囲の好奇の目にさらされながらも、順当すぎるほどのキャリアを歩んできた菅野。唯一順当にいかなかったのは「日本ハムの強行指名」だった。
藤岡貴裕(ロッテ)、野村祐輔(広島)とともに「大学ビッグ3」と呼ばれ、ドラフトの目玉のひとりであった。伯父が当時監督を務めていた関係もあり、巨人の単独指名が濃厚な状況。そこで日本ハムが勇気をもって“横やり”。抽選の結果、交渉権を獲得した。この結果を受けて、菅野は1年間の浪人生活を決意する。
浪人生活を経て、2013年に晴れて巨人入りを果たした菅野。その後の活躍ぶりは読者の方がよく知っているだろう。上原浩治以来空位だった、巨人の右のエース。いまや、その座だけでなく歴代の猛者たちにも引けを取らない存在感を示している。
控えから這い上がった黒田博樹
人はその投手を「神」と呼び、またある人は名前に必ず「様」をつけて呼ぶ。プロ野球選手の中でも数少ない領域に、黒田博樹はいる。ただ、最初から黒田は神だったわけではない。誰もがうらやむような存在ではなかった。
大阪の強豪校・上宮高では、一度もエースナンバーを背負うことなく3年間を終えた。時折目の覚めるような快投を見せるも、制球面に苦しみ試合を壊すこともしばしば。指導者から罰走を命じられ、「やめろ」と言われるまで何時間でも走ったいたという。当時から上背があり、手足が長かった黒田にとっては、走り続けることが強靭な下半身と鉄のようなメンタルを身に着け、投手としてのバランスを整える良い機会だったのかもしれない。
過酷な高校生活を終えた黒田は、大学進学後は気楽に野球を続けることを考えていた。しかし、元プロ野球選手の父(一博氏)や母の後押しを受け、東都大学リーグの古豪・専修大の門を叩く。これが功を奏し、4年時には神宮球場のスピードガンで150キロを計測するほどの剛腕へ。ドラフトで広島を逆指名し、プロ入りを果たした。
黒田の投球術をリスペクトする菅野
ともにアマチュア時代は剛腕のイメージが強かった2人。現在はどちらかというと、多彩なボールを操る投手のイメージも強いだろう。
黒田はアメリカに渡った2008年以降に、ボールを動かして打ち取る術を身につけた。日本では剛腕といえど、アメリカでは150キロ前後のスピードが当たり前の世界。メジャーで生きるために、ツーシームやスライダー、スプリットを多投した。
その投球術を食い入るように見ていたのが、浪人中の菅野。朝起きて黒田の投げるメジャーリーグ中継を観戦し、著書もむさぼり読んだという。その結果、プロ入り後は「球の速い技巧派」という総合力で勝負する投手になっている。
昨季のオールスターでは初めて言葉を交わし、黒田は「QSを続けることが大事」と菅野に金言を送った。エースたるもの、良い時も悪い時もしっかりと試合をつくる。こうして系譜が継がれていくのだ。
文=加賀一輝(かが・いっき)
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