日本での3年連続MVPや7年連続の首位打者獲得。渡米後もMLBシーズン最多安打や10年連続200本安打などなど、数々の偉業を成し遂げてきた希代の野球人・イチロー。しかし、40歳で迎えた今シーズン、ニューヨーク・ヤンキースの「5番手の外野手」という地位で、いつ試合に出るのかわからない、という「逆境」に立たされている。
だが、振り返ればイチローにとっての「逆境」はいまに始まったことではない。むしろ、「ハンデ」、「逆風」、「壁」の連続だった。
かつてイチローはこんなことを語ったことがある。
「自分は幸せな人間だと思う。不幸な人間って、何ごとも何の苦労もなくできてしまう人でしょう。でも、それでは克服の喜びがなくなってしまう」
そこでこのコーナーでは、イチローがこれまで克服してきた様々な「逆境」を再検証。そこから戦い続けるイチローの「生き様」や「こだわり」を今一度見直していきたい。第1回は「肉体的逆境」に立ち向かうイチローについて。
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1992(平成4)年にプロ入りしたイチローが、シーズン200本安打(210安打)を記録して一躍スターダムにのしあがったのは1994(平成6)年。この2年の間に作り上げたのがイチローの代名詞でもある「振り子打法」だ。
だが、当時のオリックス首脳陣をはじめ、この振り子打法を評価しない解説者・評論家は多かった。そんな周囲の声に惑わされることなく、自らの信念を貫ける意志の強さこそ、イチローがイチローたる所以。ただ、当時まだ体ができあがっていなかったイチローにとって、振り子の反動を利用するこの打法は肉体的ハンデをカバーするために不可欠な策でもあった。
プロ入り当初から「線の細さ」はイチローにとって大きな課題であり、コンプレックスだった。ドラフト指名順位が4位だったのも「線の細さ」を懸念されてのこと。入団当時の体格は身長180センチに対して体重は70キロ前半。MLBはもとより、日本球界においても標準よりも軽い部類に入るだろう。
だからこそイチローも、当初は「肉体改造」を進めた。ブレイクした1994(平成6)年以降、筋力トレーニングを繰り返し、「CM撮影の合間もスクワットを欠かさないイチロー」が話題になるなど、猛練習ぶりが頻繁に報じられていた。その甲斐もあって、パワーも身につけたイチローは翌1995(平成7)年に打点王を獲得。一時期は三冠王も狙えるほど本塁打の数も激増した。しかし、これが「まわり道だった」と後にイチローは語っている。
「ウエイトトレーニングはたくさん筋肉がついて鏡に写った姿がかっこうよく見えたりする。でも、自分は95、96年と何も知らずにウエイトをやって体のかたちが変わってしまい、それまでできていた打撃がしにくくなった」(『イチローの流儀』より)
結果、首位打者は獲得するものの、1994(平成6)年以降シーズン200本安打には届かず、納得のいかない日々を送っていたという。
「95年から98年の途中ころまで、僕のバッティングはものすごい変わりようだった。もう誰が見てもわかる。あれだけ変わる、というのは自信のなさのあらわれ。自分のかたちをつかんでいない証拠でした」(『イチローの流儀』より)
必要なのは体の大きさではない、と悟ったイチローが求めたのは「体の柔らかさ」であり、研ぎすまされた「感覚」だった。マリナーズ時代にチームメイトだった木田優夫は次のように語っている。
「イチローはよく、『年をとるとセンサーが鈍る』という発言をしていて、そのケアのために筋肉と神経の連動を高める『初動負荷トレーニング』を取り入れている」(『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』より)
イチローは、この『初動負荷トレーニング』のためのマシンをアメリカの自宅、日本の自宅、そしてキャンプ地の自宅にそれぞれ設置し、日々感覚を研ぎすませるトレーニングを繰り返した。そして、改めて自分の「強み」を再認識する。
「大リーグでは、ほかの選手に比べたら僕は大きくない選手で、“体は小さいのに”という表現をときどき使われる。でも、体を自由に動かしたり、操ったりという定義なら僕ほど恵まれている選手はいないと思います」(『イチローの流儀』より)
そしてイチローは2004(平成16)年、MLBシーズン安打記録を84年ぶりに更新。試合後の会見で、日本の野球少年にメッセージを求められ、次のように語っている。
「大きさに対する憧れや、強さへの憧れが強すぎて自分の可能性をつぶしてしまっている人がたくさんいる。これは日本の子供だけに、というわけではなく、アメリカの子供たちにもそう言いたい」(『イチローの流儀』より)