メジャー行きを直訴した広島のエース・前田健太。球団側はこれを受けて、12月8日の午前中にNPB(日本野球機構)にポスティングシステム申請の手続きを行い、NPB側もすでにMLB事務局へ連絡をしたという。
若くして広島のエースとなり、今や侍ジャパン投手陣の大黒柱となったマエケン。同学年の田中将大(ヤンキース)に続き、メジャーの舞台で躍動する姿を見たいファンも多いだろう。そんな前田の、ここまで辿ってきた道を改めて振り返ってみよう。
前田健太の名前が初めて野球ファンに知られるようになったのは、2004年夏の甲子園だった。
名門・PL学園で1年生ながらエースとして登板し、大阪大会を制した。その姿は偉大な先輩の姿と重なり、「桑田二世」と呼ばれる。しかし、甲子園初舞台となったこの時は日大三(西東京)に敗れ、自らも途中降板する悔しさを味わった。
その後も前田は、“PLのエース”としてマウンドに立ち続ける。2年夏には、前年決勝で倒した大阪桐蔭と準々決勝で再戦。試合中、右ヒジに死球を受けるアクシデントの直後、大阪桐蔭の主砲・平田良介(現中日)に逆転弾を浴びる。劣勢のなか9回に自ら本塁打を放つも、2−4で敗れた。
それでも前田はこの悔しさをバネに、3年春はセンバツ出場を果たして甲子園に帰ってきた。初戦の真岡工(栃木)戦では16奪三振で勝利。続く2回戦の愛知啓成(愛知)戦では完封勝利と、プロのスカウトを釘づけにした。
さらに準々決勝の秋田商(秋田)戦では、1失点完投と同時に、ホームスチールを記録して野球センスの高さを見せつける。準決勝で清峰(長崎)に敗れたものの、PL学園をベスト4に導く原動力となった。そして、秋の高校生ドラフトでは広島から1位指名を受け、プロ野球の世界に身を投じた。
プロ1年目は1軍での登板はなく、2軍で体力強化に明け暮れた。そして2年目の2008年、前年引退した佐々岡真司のつけていた背番号18を前田が受け継ぐことになる。球団から大きな期待を受けた前田は、6月18日の日本ハム戦でプロ初白星。その後も白星を重ねていき9勝2敗と結果を残し、多くの広島ファンに「将来のエースは前田」と印象付けた。
翌2009年は、開幕から先発ローテーション入りを果たし、勝敗こそ8勝14敗と負け越したものの、投球回数は193イニングと、前年を大きく上回り経験を積んだ。
そして2010年は、前田にとってターニングポイントとなる。プロ入り初の開幕投手に臆することなく勝利すると、前年退団したコルビー・ルイスや、右肩痛で戦線離脱した大竹寛(現巨人)の穴を埋めるべく孤軍奮闘。7月1日の巨人戦は1失点完投勝利で、自身初となる2ケタ勝利(10勝目)に華を添えた。
オールスターゲーム初出場を果たしたのもこの年。終わってみれば15勝8敗、防御率2.21、174奪三振を記録。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振と投手三冠を独占したほか、沢村賞も受賞するなど、一躍セ・リーグを代表するピッチャーへと成長を遂げた。
2011年は10勝12敗と負け越すも、奪三振数は前年を上回る192個で、2年連続の最多奪三振を獲得。
2012年4月6日のDeNA戦ではノーヒットノーランを達成するなど、自身キャリアハイとなる防御率1.53をマークした。
この年は第3回WBCが開催された。侍ジャパンに選出された前田は、1次ラウンドの中国戦、2次ラウンドのオランダ戦で勝利投手に。準決勝のプエルトリコ戦では初回に1点を失ったものの、2回以降は無失点と好投。しかし、1−3で敗戦投手となった。
それでも前田は力投が認められ、大会ベストナインに選ばれた。シーズンでもその好調さをキープして、15勝7敗、防御率2.10と、2年連続で最優秀防御率を獲得。日本を代表する投手に成長した。
2014年は先発の柱としてチームのCS進出に大きく貢献。甲子園で行われたCSファーストステージでは6回まで1失点と試合を作ったが、味方の援護がなく涙を飲んだ。
今年は15勝を挙げ最多勝、沢村賞を受賞。6年連続の2桁勝利と、その勢いは留まることを知らない。
メジャー移籍は秒読み段階に入ったと予想されるマエケン。これまでの野球人生に新たな1ページが加わることになるか。引き続き注目したい。
文=武山智史(たけやま・さとし)