雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
戦後のプロ野球は、1945(昭和20)年11月23日、神宮球場で復活しました。開催された試合は、1937(昭和12)年から始まった東西対抗戦。現在のオールスターゲームの前身に当たりますが、各球団とも、戦争の影響で選手がそろっていない状態でした。
なにしろ、8月15日の終戦からわずか3カ月後のこと。大空襲によって東京は焼け野原となっていたうえに、食糧難でもありました。
普通に考えれば、野球はもとよりスポーツをできる状況ではなかったと思えます。ただ、それぐらい、野球への渇望があったと言える面はあります。
文献資料を見ると、学生野球の関係者はプロよりも早く復活に向けて動いていますし、プロ野球を司る日本野球連盟(現在のNPB)も再開を目指して準備を進めていました。
10月8日、日本野球連盟はこう発表しています。
<リーグ戦の復活は来春、とりあえず今秋は東西対抗のほか慰問野球を後楽園、西宮、甲子園で行なう>
僕は<とりあえず>という言葉に勢いを感じました。前回に紹介した小鶴誠さんは、戦地でこの復活宣言に触れたのでしょうか。
また、<慰問>という言葉があるとおり、東西対抗の開催は、戦災からの復興を目指す人たちを元気づける意味合いがあったのです。
そして、元気づける側の選手も、実は元気づけられていた――。戦地にいた小鶴さんはまさにそうで、これは日本国内で兵役に従事していた選手も同様だったようです。
1999(平成11)年にインタビューした千葉茂さん。長嶋茂雄の前に背番号3を付けた名二塁手、巧打者として巨人で活躍した方ですが、1942(昭和17)年から終戦までは四国の松山、高知で軍隊生活。
終戦後は故郷の松山に帰って、野球とは絶縁状態だったところに、東京在住の同僚、投手の藤本英雄からハガキが届いたそうです。
<またプロ野球が再開する機運が盛り上がってきた。貴君も一度上京してみてはどうか>
この呼びかけに対して千葉さんは、「再開するといわれても、食糧危機で物資欠乏のときに、おいそれと野球ができようとは考えられん」と、半信半疑でハガキを読んだといいます。
それでも、しばらくして連盟から届いた通知は、<東西対抗への参加要請>。千葉さんは「さすがに胸躍るものがあった」と語っているだけに、まさに野球復活に元気づけられていたわけです。
「娯楽がない国民がうつろな時代だから、野球を一生懸命にやって世間の真空状態を打ち破れないか、そんな考えで参加した」
この千葉さんの言葉は<慰問野球>を象徴していると思いますが、14年前のインタビューでは、東西対抗について詳しくうかがう時間的余裕はありませんでした。歴史的な一戦に出場した野球人に取材しながら、なんとも残念……。
そこで今回は千葉さんの著書、『猛牛一代の譜』にある記述を載せておきます。
<やはり準備は大変でしたな。食糧を持っていかなくちゃならんのだから。
三日分のヤキおにぎりを作って、そのうえ、持てるだけの米を持っていくのがよかろうと、食糧が大半の荷物を抱えて、再び東京へと旅立ったのであります。
その記念すべき東西対抗の第一戦は、乱打乱撃の試合でしたが、投手が練習もしていないのだから無理もない……。しかし、試合内容などはどうでもいい。みんなは、再び取り返せたボールの感触、思い切り打ち、投げることができる喜びに、ただ満足しきったものであります>
次回、戦後の野球復活をメディアはどう伝えたか、という話から始めたいと思います。