新井は1998年秋、ドラフト6位で地元・広島から指名を受けて入団。大学4年時には大学全日本代表に選出されるが、決してスタープレーヤーという存在ではなかった。
そんな新井はプロ1年目のシーズン途中にはファーストでスタメン出場を果たすなど出場機会を得て、7本塁打をマーク。2000年のシーズン途中にチームのベテラン・野村謙二郎からサードのポジションを奪取。18本塁打と前年よりも本塁打数が増え、主砲候補として頭角を現していく。
2001年は主に外野手でプレーして18本塁打。そして2002年には140試合フル出場を果たすと、打率.287、28本塁打、75打点と自己最多の結果を出す。この年は初のオールスターゲーム出場を果たし、飛躍の年となる。
その一方でチームの中心選手・金本知憲(当時広島)の弟分として、イタズラの標的にされるなど「いじられキャラ」としても認識されていった。オフにはその金本がFA宣言し阪神へ移籍。金本に代わる4番打者として期待されるが、そのプレッシャーに苦しみ、2003年以降は伸び悩んでしまう。
2005年、新井に転機が訪れる。打撃スタイルの変更が功を奏して本塁打を量産。43本塁打で初めて本塁打王のタイトルを獲得。4番にも返り咲き、チームの主砲として2006年からは2年連続全試合出場を果たした。
そして2007年オフ、FA権を取得していた新井は、広島残留か、FA行使かと揺れ動く。悩み抜いた結果、新井はFA権行使を決断。その会見では「辛いです。カープが好き過ぎて」と複雑な心境を語り、涙を流した。
阪神へ移籍した2008年、新井は北京五輪代表に選ばれ、星野仙一日本代表監督から4番を任された。腰の骨折を押しながら出場し続けたが、チームはメダル獲得を逃し、新井にも非難の声が向けられた。
五輪でのケガもあり、阪神移籍1年目は不本意なシーズンに終わる。しかし2010年4月途中からは兄貴分・金本に代わって4番に座り、打率.311、19本塁打、112打点と、阪神移籍後の最高成績を残す。さらに翌2011年には93打点で打点王を獲得。阪神の顔としてチームを引っ張っていった。
順調に結果を出してきた新井。しかし、次第にその輝きは色褪せていく。2012年にはスランプに陥り、本塁打数はわずか9本に。翌年には4番の座をマット・マートンに明け渡し、チームが日本シリーズに出場した2014年はマウロ・ゴメスの入団や、自身の成績不振もあって6年ぶりに100試合未満の出場に終わる。オフには自ら自由契約選手となり阪神を離れ、獲得を打診してきた古巣・広島に復帰することとなる。
年俸は2000万円と大幅減となり、広島ファンも「今更戻ってくるなんて…」と冷たい視線を送る逆境のなかでの2015年シーズン。当初は主に代打での出場が多かったが、ブラッド・エルドレッド、ヘスス・グスマンの両外国人の離脱もあって、途中から4番での出場機会が増えた。勝負強い打撃で4番の仕事を果たし、徐々にファンの信頼を勝ち取っていく。
オールスターにも2年ぶりに出場し、終わってみれば124試合に出場と存在感を発揮。オフの契約更改では3倍近くの6000万円と大幅アップを勝ち取った。
そして背番号が28から慣れ親しんだ25に変わった今シーズン。開幕前に残り29本としていた2000安打を達成。39歳のベテラン・新井は広島にとってやはり必要不可欠な選手だ。
文=武山智史(たけやま・さとし)