「レジェンド」と呼ばれた男にも、ユニフォームを脱ぐ瞬間がやってきた。中日を長年支え続けたサウスポー・山本昌が、今季限りで引退。最年長記録を数多く所持している中、50歳で現役生活に区切りをつけた。
「とんでもないところに来てしまった」
小松辰雄、鈴木孝政、郭源治――山本昌の入団当時、中日にはリーグでも有数の剛腕が揃っていた。自身も背番号34かつ180センチ超の大型左腕ということで、“金田正一2世”と称されていたが、全力投球をしても最速は130キロそこそこ。周囲の期待を愕然とさせるところから、山本昌のプロ人生は始まった。
デビュー戦もほろ苦いものだった。プロ3年目の1986年10月16日のヤクルト戦で1軍初登板。池山隆寛から三振を奪うも、広沢克己に2ランを浴び、降板。この登板のみでシーズンは終わり、翌年も成績の上積みはほぼなし。このままでは戦力外通告をされるのも、目に見えていた。
星野仙一監督2年目の1988年、中日は業務提携を結んでいたロサンゼルス・ドジャースとともに、ベロビーチで春季キャンプを行う。しかし、山本昌はキャンプが終わっても一向に帰国の旨を伝えられない。そのまま、マイナーリーグのチームに野球留学をすることになったのだ。
この時、野球留学に派遣される選手はシーズンの構想外に値すると言われていた。山本昌の野球に対する情熱を冷ますには十分な出来事だったが、ある球種との出合いが再び男を突き動かす。それが、のちに彼の代名詞となるスクリューボール。名投手として名高いフェルナンド・バレンズエラ(元ドジャースほか)の球筋は参考にならなかったものの、同僚の内野手が遊びで投げていたボールをヒントに作り上げた。
魔球を引っさげ、山本は1Aのオールスターゲームに選出されるほどの大活躍を見せる。メジャー昇格も夢じゃないところまで登りつめたが、8月に球団の指示で帰国。2カ月で2完封を含む5勝をマークし、中日の6年ぶりとなる優勝に貢献した。投げるボールのキレ、身体の大きさのいずれも成長を遂げ、以降チームを代表する投手となっていく。
そして、スクリューボールは引退を迎えるまで大きな武器であり続け、留学時に指導してくれた故・アイク生原氏への感謝も山本昌は忘れることはない。
文=加賀一輝(かが・いっき)