さまざまな苦労や不遇の境遇に対して、諦めることなく努力し、それを乗り越えてきた野球人たちに迫る「逆境を乗り越えた男たち」。
最終回は最終回らしく、現在はボストン・レッドソックスのクローザーを務める上原浩治で締めたい。彼もまた幾多の逆境を自らの力で乗り越え、今では世界最高峰の舞台で輝きを放つまでに成長した男である。
1975年4月3日、鹿児島県で生まれ、大阪府寝屋川市で育った上原浩治。野球好きの父と兄の影響で、すぐに野球に夢中になった。進学した中学校には野球部がない不遇に負けることなく、陸上部に入部して下半身を徹底強化。そして東海大仰星高へ一般入試で進学し、念願の野球部に入部する。
ここで、上原に大きな「逆境」が訪れる。スポーツ推薦で入学した部員は7人もおり、投手を希望した上原に、活躍の場は訪れなかった。当時のエースで日本ハムでも活躍した建山義紀(現在フリー)の控えだったのは有名な話。主に外野手やバッティング投手を務めていた上原は「運動部ならではの上下関係に辟易し、やり切れなくなった」と、自身の著書『闘志力』で記している。
高校3年生の夏、控え投手のままで敗れた府大会も終わり、上原は体育教師になることを志した。建山義紀が社会人やプロ球団から勧誘を受けるなか、大学進学を目指す上原。しかし、ここでも上原に試練がもたらされた。希望する大学は推薦入試では受けられず、さらに一般受験にも失敗。浪人生活を送る事になったのだ。
だが、この浪人時代こそ、上原の「原点」となっている。受験勉強する傍ら、家計を助けるためにアルバイトをする上原。スーパーのレジ打ちや引っ越しの手伝い、真冬の深夜に工事現場のガードマンをやったこともあったという。こうした経験のなかで自身の代名詞となる「反骨心」が培われ、さらにこの頃から続けていたジム通いによって、体力は飛躍的に向上。一浪後に晴れて大阪体育大に合格した上原。その投球練習を見た、大阪体育大の中野和彦監督は、1年前とは別人のような球のキレに驚いたという。
大学では1年生から試合に登板し、ほどなくエースに君臨した上原はなんと、阪神大学リーグで全8シーズン中5シーズン、チームを優勝に導く活躍をみせた。中央球界では無名だった同リーグ。しかし、上原は大学野球の全国大会・全日本大学野球選手権でも好投をみせ、日本だけではなく、メジャーリーグのスカウトからも注目を浴びる存在となった。
そして、エンゼルスか巨人か、という争奪戦の末、1998(平成10)年のドラフトで巨人を逆指名し入団。1年目に20勝をマークして最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率などのタイトルの他、新人王と沢村賞を受賞。野球をする環境が整ったエリートたちとは異なり、高校時代の控え経験や浪人時代などの「逆境」を乗り越えてきた自身を「雑草魂」と表現し、この言葉は1999年の流行語大賞に選ばれるほど、多くの人から共感された。
また、上原の日本での野球人生を振り返るなかで、忘れられないシーンがルーキー時代にあった。10月5日、ヤクルトとの最終戦。当時、同僚の松井秀喜と激しく本塁打王争いをしていたペタジーニと対戦した上原は、ベンチの指示で敬遠気味の四球を与えた。納得できない上原はマウンドの土を蹴り上げ、涙を浮かべた。
この悔しがる気持ち、自分自身が納得できない事に対して、抑えきれない感情を持っているのが上原の最大の魅力。上原を知る人は彼を「究極の負けず嫌い」と評している。このときの涙は負けず嫌いな性格を表すエピソードといえるだろう。
2008(平成20)年まで巨人に所属した10シーズンで112勝62敗33セーブ、防御率3.01を記録。ケガやその時のチーム事情に合わせて、先発に抑えに活躍した。いろいろな役割を経験できたことが、のちのメジャーでの活躍にも生きたことだろう。
春先のレッドソックスは、ブルペン陣がうまく機能しなかったが、6月終盤からセットアッパー・田澤純一、クローザー・上原浩治の形がはまった。そこからワールドシリーズまでかけ抜け、2007(平成19)年以来6年ぶり8度目の世界一に輝く。地元のフェンウェイ・パークで優勝を決めた、その瞬間にマウンドに立っていたのが上原だった。
日本人選手として初めてワールドシリーズ胴上げ投手となった上原。実は2年前の2011(平成23)年のポストシーズン(当時レンジャーズ)では、救援投手としてメジャーリーグ史上初となる、3試合連続で本塁打を打たれ、チームはワールドシリーズに進んだものの、上原は選手登録からは外れた苦い経験があった。
そんな「逆境」があったからこそ、昨季の上原は燃えた。「最後は正直、吐きそうでした」と心境を吐露したが、2年前に味わった屈辱があったからこそ、それを乗り越えようとする持ち前の「反骨心」が働いて、世界一の投手となったのだろう。