2015年9月12日、一人の選手がバットを置いた。
和田一浩。
「すくい上げ打法」と呼ばれる独特のフォームで、ファンを魅了した大打者だ。1996年、24歳の時に西武ライオンズから指名を受けたことで幕を開けた彼のプロ野球人生。43歳で引退するまで、19年に渡る現役生活を3つの転換期とともに振り返ってみよう。
元々は捕手として指名され、松坂大輔ともバッテリーを組んでいた和田。しかし彼が入団した頃の西武ライオンズには、伊東勤、中島聡といった名捕手が所属し、バリバリ活躍していた。さらに「性格がよくて相手の裏をかくリードができない」という伊原春樹監督の分析により捕手に見切りをつけ、ちょうど30歳となる2002年から外野手一本に絞って出場することに。するとコンバートが大当たりして、打率.319、33本塁打、81打点という成績を叩き出した。
その前の年にも捕手として規定打席未満ながら打率.306、16本塁打を打っていたことから、打てる下地はあった。しかし「アンチがいない」と言われるほど真面目で性格がいい和田だけに、守備でのミスが打撃に影響する可能性も否定できない。打つことに集中できる環境に身を置いたことがプラスに働いたのは、コンバートの年から3年連続で3割30本を打ち続けたことからも明らかだ。
ブレイクした2002年以降、順調に一流打者への道を歩んでいたはずだったが、2005年から成績が安定しなくなる。打率、本塁打は申し分ないのに打点が低かったり、逆に打率、本塁打が物足りないが打点は高いといった具合だ。
その間に首位打者や最多安打といったタイトルを獲得し、WBCの日本代表にも選出されたのだが、今ひとつ波に乗り切れない。またそれまでの活躍が鮮烈過ぎたため、ファンも「もっとできるはず」と思ってしまう。和田もそんな自分を変えたかったのか、本塁打、打点ともにレギュラー定着後で最低の成績を記録した2007年のオフにFA宣言。新天地は、和田が物心ついた時から好きだった球団・中日ドラゴンズとなった。
移籍初年度こそセ・リーグの野球に慣れず、前年並の成績だったものの、2009年に自慢の打棒が復活。37歳にして初の全試合出場を果たし、前年の倍近い29本塁打を放った。春のキャンプで打撃改造を行ったことが実を結んだのだが、それまでも打率3割は打てていただけに変える怖さはなかったのかと疑問に思う。しかし、他部門の成績は落ちていることから、不本意であることに変わりはない。だからこそ、思い切った改革に出ることができたのだろう。
そして2010年、38歳を迎える年にプロ野球人生のハイライトが訪れる。主要タイトルこそ逃したものの、打率.339、37本塁打、93打点と、キャリアハイを8年ぶりに更新し、初のシーズンMVPに輝く。またポストシーズンでは、クライマックスシリーズでMVP、日本シリーズで敢闘賞を獲得。これらの結果に呼応するように年俸は4億円に達し、まさに最高の1年となった。
打撃改造を「賭けに勝った」と言うと語弊があるかもしれないが、失敗するリスクを恐れていたら、間違いなくこの結果は得られなかった。37歳は選手にとって引退を考える年齢だが、24歳でプロ入りした和田にとっては、まだまだ通過点に過ぎなかったということ。そして捕手から外野手へコンバートした時も、FAの時も、打撃改造の時もそうだが、傍から見て動く必要がないと思うときに動ける勇気が、和田を超一流の域へ誘ったのだろう。
過去最高の成績を収めた2010年をピークに、和田の成績はゆるやかに下降していく。打率が3割を超えることがなく、好調だった2014年も8月にデッドボールを食らって戦線離脱。その年に達成できると思われた2000本安打に暗雲が垂れ込め、膝の手術をした時は、いよいよツキにも見放されたようにも思えた。
しかしシーズン開幕に遅れること2カ月。5月26日の交流戦・福岡ソフトバンクホークス戦で復帰すると、6月11日の千葉ロッテマリーンズ戦で2000本安打を達成。大学・社会人経験者としては3人目の偉業で、42歳11カ月という史上最年長記録というおまけ付き。和田ほどの打者ならば通過点とも思えるが、結果的に引退の年と重なったため、たどり着くことができてよかったと心から思う。
ただ、もしも2000本安打を達成していなくても、ファンの記憶にはしっかりと残っていたはず。和田にしかできない唯一無二のバッティングフォームは、一度見たら忘れることができないからだ。