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俺の職業は「高校野球監督」 金なんていくらでもよかった〜常総学院・木内幸男元監督


取手第二高校〜常総学院高校 木内幸男元監督


無給で職業監督を始めた男


 木内幸男元監督。1931年生まれ。甲子園通算40勝19敗。春優勝1回、準優勝1回。夏優勝2回、準優勝1回。1977年夏、取手二を率いて46歳にして甲子園初出場初勝利。1984年夏に53歳で甲子園制覇。翌1985年に常総学院に移り、歴代6位の勝ち星のほどんどを50代以降にたたき出した遅咲きの名監督だ。

 プレースタイルはもとより性格に至るまで把握しきった選手を巧みに起用し、戦況を読みきった驚きの采配で勝ちを手にいれる。常総学院に移ってから真価を発揮した、勝負の流れを自在に操る手腕は「木内マジック」と呼ばれ、対戦校の監督たちに恐れられた。

 また、木内元監督は「生涯一職業監督」を貫いたことでも知られている。高校卒業後すぐに指導者の道を歩き出すが、初めて率いた土浦一では無給。取手二時代は月給4千円(当時のサラリーマンの月給の約3分の1)から始まった。給料が多少上がっても妻と子供を抱え満足に暮らせる額にはほど遠い。時には学校の管理人室で暮したこともある。見かねた周囲からは、教員免許を取るように進められたが拒否。職業としての高校野球監督にこだわり続け、50歳を過ぎて宿願を達成した。遅咲きの大輪を咲かせてからは、専用グラウンドも用意された常総学院で勝ち星を積み重ね、名将の名をほしいままにしていった……。

 茨城弁丸出しの明るさと、勝負師の鋭さが織りなす木内元監督のキャラクターは高校野球の枠を超えた人気を集め、世間の目を「高校野球監督」という存在にフォーカスさせた。

 と、いうような木内元監督のキャリアは高校野球ファンなら周知の事実だろう。『週間野球太郎』にとって本誌にあたる『野球太郎』で2014年夏に「高校野球監督名鑑号」を発行した時も、表紙は異論もなく木内元監督が飾った。

牧歌的な甲子園に咲いた遅咲きの大輪


 木内元監督がPL学園を破って甲子園優勝を果たした1984年の夏に振り返ってみたい。1980年代の甲子園は大きなブームを迎えていた。1980年は彗星のように登場した早稲田実業の1年生投手、荒木大輔が横浜の愛甲猛と決勝で激突。破れはしたものの甲子園アイドルとなり、爆発的な女性人気を集めた。1982年夏、1983年春には蔦文也元監督の池田が驚異的な攻撃野球で2季連続優勝。1983年夏にはPL学園の恐るべき1年生、桑田真澄、清原和博のKKコンビが現れ、3季連続優勝間違いなしといわれた池田を準決勝で粉砕。そのPL学園は1984年春に準優勝、優勝候補筆頭として臨んだ夏は準々決勝で松山商、準決勝で金足農を接戦の末に退け、あとは深紅の大優勝旗を大阪に持ってかえるだけ、という情況だった。誰もがPL学園が取手二をあっさりと破ると思っていた。

 話はやや前後するが1980年に小学4年生だった私や同級生にとって甲子園は、『ドカベン』の世界そのものだった。いや、『ドカベン』が甲子園そのものだった、という言い方が相応しいか……。いずれにせよ当時、元気な小学生男子の多くは『ドカベン』にしびれ、町の少年野球チーム(私が住んでいた岡山市はソフトボールが盛んな土地柄だったが)に入団するのが当たり前だった。

 この時期は、上記で述べた選手、監督以外にも工藤公康(名古屋電気)、金村義明(報徳学園)、渡辺智元監督(横浜)など濃いキャラクターが次々と甲子園にやってきたこともあり、男子にとって甲子園は最高の娯楽だった。その熱には、少年野球を早々とやめた男子が中学生になってもなかなか冷めなかった。

 シニア、ボーイズリーグの強豪チームで名を挙げ、強豪校に進み甲子園出場。中学生にして大学、社会人、プロ野球をも視野に入れた「野球エリート進学ガイドライン」ができあがる前の時代の話で、今思うと、なんというか甲子園も、野球少年もきわめて牧歌的だった。その分、泥臭くもあったのだが……。

取手二の監督は危険だ……


 さて、木内元監督がリーチをかけたPL学園との決勝戦当日。中学に進んだ私は坊主がりが嫌でテニス部に入っていたのだが、午前の練習を終えるとテニス部の数人と連れ立って、発売されたばかりのファミコンを持っている帰宅部の同級生宅を来襲した。セビウスかファミスタか。でもその前に、とばかりテレビのチャンネルを甲子園に合わせた(無理矢理押し掛けてすまなかった……)。

 その同級生宅では前々日も前日もPL学園の逆転劇を見ていた。「やばい! PLが負けそうだ!!」と手に汗を握った2日間を経て、この日は「夏が終わる儀式」に立ち会うくらいの気持でおり、勝利はPL学園のものと思い込んでいた。

 しかし……。ライトブルーのユニフォームを着た取手二ナインは不敵だった。「KKの首、かっ切ってやるぜ!」。そんなやんちゃなお兄さん達がいるのを、校内暴力時代の中学生男子はすぐに察知した。そして取手二のベンチには、恋すら知らぬぼんくら中学生男子に、ただならぬ人生の匂いをビシビシと伝えるおっさんがいた。中学生のボキャブラリーでは言い表せないおっさんの気迫に、みんな重く押し黙ってしまった。危険だ……。

 取手二はPL学園を相手に一歩も引かない。(大人になってわかったことだが)ワンポイントリリーフという奇策でサヨナラ負けのピンチをしのいだ取手二は、延長戦で桑田をKO。やっぱり……。勝者は取手二、木内元監督だった。

 こうして、狐につままれたように夏の終わりを迎えた私たちは、ファミコンには手を伸ばさず、近所の空き地で西日のなか野球を始めた。テニス部の我々も、帰宅部のあいつも、甲子園が好きだったんだろう。


教育も勝負も飲み込む濁流


 実績を上げた高校野球監督は「職業監督」であっても立派な教育者と見られがちだ。だが、木内元監督は違った。教育は学校にお任せしたい。教員になるとまじめに授業を受けているとか、野球以外の情が入って選手起用にまぎれがでる。木内元監督は教員にならない理由についてはっきり述べている。

 プロとしての高校野球監督になり、甲子園で勝てる野球部を作る。そのために徹底的に選手を観察する。選手の性格、得意なプレーを踏まえて、ここぞというタイミングで成功する選手を起用する。奇策ではなく、すべては勝つための確率を高める必然的な手段でしかない。木内監督は引退後に言った。「木内マジックなんてねえよ」。

 木内元監督の取材に編集者として赴いた時、印象に残った言葉がある。

 「プロ野球を目指すなら他の学校に行ってくれ。そんな指導、俺にはできねえ。でも甲子園には行かせてやる。だから汚いフォームをしてるピッチャーがいたら、もっと汚くしろって言ってやるんだ。その汚いフォームが試合で使える時がある。お前、甲子園に行きてえんだろって」

 また、「好きな野球をやらせてもらえるんだから給料なんていくらでもよかった。給料を下げられて『さすがにやめるだろう』と思われても、俺はやめねえんだ。野球を精一杯やらせてもらいますってな。でも俺は野球で給料をもらってんだから、結果を出さねえといけねえ」と職業監督の矜持をみせた。

 茨城弁でゆかいに語る木内元監督は怖かった。給料はいくらでもいい。でも金をもらってる以上は勝つ。全ては勝つための手段だ。この生き様に口を挟む余地はない。テコでも動かぬ執念の前に、教育も勝負も大きな濁流に飲み込まれていくようだった。


■著者プロフィール
山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。

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