甲子園の熱戦、再び。今日28日から阪神甲子園球場をはじめとした4つの球場で、U-18ワールドカップが実施される。1年生で選出された清宮幸太郎以外、他の19人は全員が高校3年生。いずれもこの秋のドラフト注目選手たちだ。この大会での成績次第では、指名そのものの可能性はもちろん、指名順位が変わってくる可能性もある。甲子園優勝投手、小笠原慎之介(東海大相模)といえど、気を引き締めて臨まなければならない。
ドラフト制度が整う以前、古くは1951(昭和26)年、夏の甲子園大会で優勝した平安高(現龍谷大平安高)のエース・清水宏員(ひろかず)が、1952(昭和27)年に毎日(現ロッテ)に入団。プロ通算6年間で10勝7敗と平凡な成績が残っている。
「夏の甲子園の優勝投手は大成しない」というジンクスは、昭和40年代後半から昭和50年代あたりから囁かれるようになった。例えば、2年夏に江川卓(作新学院高)に投げ勝って全国制覇を果たし、中日に1974(昭和49)年ドラフト1位で入団した土屋正勝(銚子商高)。プロ11年で8勝24敗4セーブと期待に応えることができなかった。高校時代の登板過多が原因か、プロ入り後は肩やヒジの故障に悩まされた。また昭和50年代後半、池田高でエースを務めて、夏の甲子園優勝投手となり、1982(昭和57)年ドラフト1位で南海入りした畠山準も、プロ入り後は投手として目が出ずに打者転向。横浜高で夏の甲子園優勝投手となった愛甲猛も、1980(昭和55)年ドラフト1位でロッテ入団後の4年目には打者転向している。
センバツ組に目を向けよう。1970(昭和45)年の第42回センバツで優勝投手となった島本耕平(箕島高)は、同年ドラフト1位で南海に入団直後に打者転向。2年後の1972(昭和47)年、第44回センバツで同じく優勝投手となった仲根正弘(日大櫻丘高)も、同年ドラフト1位で近鉄入団したが、数年で打者転向している。こうしてみると、センバツ優勝投手も活躍は少なく、また、春でも夏でも甲子園優勝投手はプロ入り後、打者に転向するケースが多い。
早稲田実業で、1957(昭和32)年のセンバツ優勝投手となった王貞治は言わずもがな、1981(昭和56)年の夏の甲子園で優勝に導いた金村義明(報徳学園高)も同年ドラフト1位で近鉄入団後に打者転向。近年では2009(平成21)年夏の甲子園で優勝した堂林翔太(中京大中京高)も、ドラフト1位で広島入団時には、打者としてプロ挑戦を明言。やはり甲子園優勝投手は、非凡な野球センスを持っているのだろう。
しかし、投手としてその才能が開花するかというと、やはり夏の甲子園優勝投手がプロで活躍するのは稀である。プロ入り後にシーズン10勝を挙げた投手は12人に絞られる。そのうち、プロ通算で100勝以上を記録したのはわずか5人。浪商高(現大体大浪商高)2年時に夏の甲子園優勝投手となり、高校を中退して東映に入団した尾崎行雄や、PL学園高で甲子園春夏連覇を果たし、1987年ドラフト3位で大洋に入団した野村弘(弘樹)。同じくPL学園高出身の桑田真澄(元巨人ほか)、横浜高で春夏連覇を果たした松坂大輔(ソフトバンク)、そして駒大苫小牧で2年時に優勝投手になった田中将大(ヤンキース※日米通算)の5人だけだ。
現役続行中の松坂、田中以外は、名球会入りの基準となる200勝をマークすることができなかった。センバツ優勝投手を含めても、戦後のプロ野球では201勝を記録した平松政次しかいない。平松は岡山東商高から日本石油(現JX-ENEOS)を経て、1966(昭和41)年ドラフト2位で大洋から指名を受け、1967(昭和42)年に入団している。
高校NO.1左腕として、今年のドラフト1位候補といわれる小笠原慎之介は、果たしてプロ志望届けを出すのか? 何球団が指名してくるのか? 今からドラフト会議が楽しみでならない。「甲子園優勝投手」の十字架を背負い、未来へと歩み出す彼の今後の活躍を応援したい。