西武の投手コーチを務めていた森慎二氏が急逝したのが6月28日。その数日前に体調不良を訴え入院、27日に休養を発表した直後のことだった。
森氏は、1996年のドラフト2位で新日鐵君津から西武に入団。長身から投げ下ろす150キロ超の剛速球を武器に、主にセットアッパーとして活躍。2005年までの在籍中に3度の優勝に貢献した。
その後はメジャー挑戦や国内の独立リーグを経験した後、2015年から西武の2軍投手コーチ、2016年のシーズン途中から1軍投手コーチに就任。後進の指導に精力的に取り組んでいた最中の急逝だった。
享年42歳。溶連菌の感染による敗血症が原因とのことだが、あまりにも突然の訃報だった。
球界を代表する左のワンポイントリリーフだった永射保氏も、肝臓がんのため6月24日に亡くなった。享年63歳。
1971年のドラフト3位で鹿児島の指宿商高から広島に入団。その後、西武(太平洋、クラウン含む)、大洋、ダイエーと渡り歩いた永射氏は、通算606試合に登板。大きくインステップするアンダースローに近いサイドハンドという変則的なフォームが特徴で、コントロールと投球術で勝負するタイプだった。とくに強打の左バッターを痛快に料理する姿が印象に残っているオールドファンも多いことだろう。
現役引退後は、台湾球団のコーチや、リトルリーグの指導者としても活動していた。
選手としてはわずか3年の現役生活だったが、指導者としては非凡な才能を発揮した上田利治氏。阪急、オリックスを率いた1974年から1978年、1981年から1990年の15年間でリーグ優勝5回(うち日本一3回)、2位6回、3位1回、4位3回と好成績を残し、5、6位は一度もなし。阪急の黄金時代の象徴的人物だった。
また、日本ハムでも1995年から5年間指揮を執り、優勝こそなかったものの2位2回、4位2回、5位1回という成績を残した。
監督時代の上田氏といえば、1978年、阪急とヤクルトが争った日本シリーズでのポール際の打球をめぐる1時間以上の猛抗議が有名だが、本来は明るい性格。選手を褒めるときの口癖「ええで!」が、それを物語っている。2003年には野球殿堂入りを果たした。7月1日に肺炎のため死去。享年80歳。
1964年から1972年にかけて阪急で活躍したダリル・スペンサー氏も1月2日に死去。88歳だった。三冠タイトルにはあと一歩届かなかったが、日本での7年間で152本塁打を放っている。
1978年、1979年にヤクルト、1980年には阪神に在籍したデーブ・ヒルトン氏も、9月17日に67歳で亡くなった。上体を極端にかがめる独特の打撃スタイルで安打を量産。ヤクルト時代は、球団初のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。
文=藤山剣(ふじやま・けん)