今年、球団創設80周年というメモリヤルイヤーを迎えた中日。球団創設は1936年だが、当初は本拠地がなく、試合はもっぱらロードばかりだった。
そんな中日に悲願の本拠地「ナゴヤ球場」ができたのが球団創設から12年後の1948年のこと。開場当時は「中日スタヂアム」と呼ばれ、ファンには「中日球場」の愛称で親しまれた。収容人数は2万5000人。全て木造でつくられ、完成までわずか1カ月半しかかからなかった。
しかし、完成から3年後の1951年8月19日に悲劇は起きた。対巨人戦の3回裏、中日の4番・西沢道夫が打席に入った際、バックネット裏の指定席上段あたりから火の手があがったのだ。強風であっという間に火は燃え上がり、木造スタンドは全焼。死者4人、負傷者318人という大惨事となった。もっとも、手当を受けずに帰宅した人も大勢いたと見られ、実際の負傷者はもっと多かったといわれている。出火原因は、観客によるタバコの火の不始末だった。
だが、ここからの再建が実に早かった。同じ年の11月15日に再建工事が始まると、翌1952年3月中旬には完成。簡単に火災など起きないよう、今度は鉄骨・鉄筋コンクリート製で、収容人数も3万人に増設された。
こうして再建したナゴヤ球場だが、以降も2度、火災にまつわる騒動が起きている。
1990年9月11日、中日対大洋の試合開始直前に、右翼照明灯下の清掃具置き場から出火するボヤ騒ぎが起きた。出火原因はまたもタバコの火の不始末。ライトスタンドにいた観客をグラウンドに一時避難させ、消火活動にあたった。幸い、すぐに消火に至り、試合も定刻からわずか23分遅れただけでプレイボールに。ただ、この試合はすでに優勝が決まったあとのゲームということもあって、「ナゴヤ球場でとんだ“消火試合”」と揶揄される格好となった。
昨年2015年7月18日には、ナゴヤ球場のすぐそばで車両火災が起き、死者も出る騒動があった。火災は18日午前中に発生。球場東側の市道で普通乗用車の助手席から炎上し、消防車など4台が出動した。火災が起きた時間帯は、室内練習場で2軍選手がウオーミングアップを開始するタイミング。当時は山本昌や吉見一起も2軍にいたため、ファンを一層やきもきさせた。
野球界では、投手が打ち込まれることを「炎上」と呼び、さらに最近ではSNSでの発言をきっかけに「炎上」してしまう選手も少なからずいる。それらも問題だが、くれぐれも物理的な炎上は今後もう起きないよう、関係者にはより一層の注意喚起をしていただきたい。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)