昨秋から年明けにかけて、金田正一(元国鉄ほか)、野村克也(元南海ほか)という投打のレジェンドがこの世を去った。あらためて両者の功績を、現役時代の数字を中心に振り返ってみたい(以下、敬称略)。
金田正一の記録として最も有名なのは、通算400勝だろう。単純計算で20勝を20年。これでようやく到達するのが400勝という数字だ。シーズンで20勝するのも、20年続けられるのもひと握りの投手だけ。実際、金田は現役として20年プレーしたが、この事実だけでいかにすごいかがわかる。
この400勝の中には、リードしている試合の途中からマウンドに上がり「おいしいとこ取り」した勝ち星もあり、実は先発での勝利は3分の2ほど。それでも、400勝は空前絶後の記録であることは間違いない。ちなみに、歴代2位は米田哲也(元阪急ほか)の350勝で50勝もの差をつけている。
ほかに、通算4490奪三振も歴代最高。こちらも2位は米田哲也で3388奪三振。その差はなんと1102個。ぶっちぎりで日本の奪三振王なのである。さらに通算298敗、通算与四球1808個も最多記録だ。
シーズンの投手部門タイトルは、最多勝利3回、最優秀防御率3回、最多奪三振10回を獲得し、沢村賞も3度受賞している。
監督として1565勝(1563敗)を挙げ、多くの後進を育てたことで、その功績が強調されることが多い野村克也だが、選手としても超一流の成績を残している。
戦後初の三冠王を達成した1965年は、打率.320、42本塁打、110打点を記録。首位打者に輝いたのはこの年の1回だけだったが、本塁打王には8年連続含む9回、打点王には6年連続を含む7回と、とにかく抜群の勝負強さを見せた。
ただ、打撃部門の通算成績は2位が多い。2901安打は張本勲(元東映ほか)の3085安打に次ぐ2位で、657本塁打と1988打点も王貞治(元巨人、868本塁打、2170打点)の次点。3017試合出場も谷繁元信(元横浜ほか、3021試合)に抜かれ2位となっている。そんな中で打席数11970は、歴代1位。日本球界で、誰よりも打席に立って投手と対峙したのが野村なのである。
両者とも球界において歴史的な足跡を残している名選手ではあったが、プロ入りへの歩みは対照的だった。
1933年8月1日生まれの金田は、愛知・享栄商(現・享栄高)出身で、3年時の夏の愛知大会準決勝で敗れ、そのまま高校を中退し国鉄スワローズに入団。8月にデビューして、その年にいきなり8勝をマーク。令和の時代にたとえれば、昨夏に岩手大会の決勝で敗れた佐々木朗希が大船渡高を中退し、プロ入りするようなもの。もちろん、今では制度上不可能ではあるが、いかに金田が型破りの逸材だったかがわかる。
それに対して1935年6月29日生まれの野村は、京都の峰山高という無名の公立高校の出身。プロ志望だった野村の思いを受け、当時の監督が各球団に打診し、唯一、返事があった南海のテストを経ての入団だった。しかも、1年目のシーズン(9試合に出場し、11打数0安打)を終えた時点で戦力外通告を受けている。それでも、辞めたくない一心で交渉し、どうにか残留。そこから一流選手へと這い上がっていった。
まさにエリートと叩き上げ。対照的なキャラでありながら、最終的には一時代を築く選手として名を残した。もちろん両者とも、生まれ持ったものに加えて、並外れた努力を重ねたことは言うまでもない。
文=藤山剣(ふじやま・けん)