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高校野球の聖地・甲子園球場が持つさまざまな顔

 いよいよ開幕が間近に迫った甲子園大会。その開場である阪神甲子園球場は昨年、開場90周年のメモリアルイヤーで注目を集めた。1924年に誕生したこの巨大球場そのものにもさまざまなドラマが隠されている。今回は、球場開場当時にまつわるトリビアを集めてみよう。


5,000人から60,000人のキャパシティへ


 甲子園球場の建設が迫られたのは、1923年に行われた「第9回全国中等学校野球大会」が発端だった。開催場所だった鳴尾球場(収容人数5,000人)のキャパシティを大きく超える観客が集まり、人がグラウンドにあふれ出てしまうハプニングが発生。試合も一時中断せざるを得ないほど混乱を来していた。

 この事態に、主催の大阪朝日新聞社は大規模野球場の建設を提案。鳴尾球場を所有していた阪神電鉄も周辺の都市開発を進めていたことから、巨大球場建設プロジェクトが動き出すことになった。当時、巨大球場の建築例は日本にはなく、建設にあたって参考にしたのが本場アメリカの野球場。ニューヨーク・ジャイアンツの本拠地でもあったポログラウンドの設計図が手に入り、研究を重ねた結果、敷地面積約12,000坪、収容人数60,000人という巨大スタジアムの建設が決定した。

球場開きは2,500人の陸上大会


 甲子園球場で最初に開催された行事は何か? 工事が完成したのは1924年7月31日。その翌日1924年8月1日午前7時からの竣工式に引き続いて行われたのは、近隣の150の小学校から2,500人の児童を集めて開催された「阪神間学童体育会」という陸上大会。空には新聞社の飛行機音がとどろき、スタンドには10,000人を超える父母や応援児童の歓声が響いた。

 甲子園球場建設の主目的だった全国中等学校優勝野球大会は、完成から2週間後、1924年8月13日に幕を開けている。

すぐに埋まったマンモススタジアム


 こうして歴史がはじまった甲子園球場。その開幕戦を飾った静岡中対北海中の試合に出場した静岡中ナインは緊張で思ったようにプレーできなかったという。山のようなスタンド、空を遮る大きな屋根、緑の絨毯のような外野……全てが初めて見る情景だったから無理はないだろう。東洋一の規模を誇る「大甲子園」の雄大さに選手も観客も、酔いしれた。

 また、そのあまりの大きさ故に、当初は関係者の間でも「60,000人のスタンドがすべて埋まるには10年はかかるのではないか?」と心配する声が大きかった。ところが、大会4日目、当時「東西の横綱」といわれていた兵庫県の第一神港商業(現市立神港)と、東京の早稲田実業が激突するという好カードに、スタンドは60,000人の超満員。この試合では“和製ベーブ”と呼ばれていた第一神港商業の好打者・山下実が甲子園球場初のホームランを放ち、その名を歴史に刻んだ。

甲子園球場命名秘話


 最後に、この球場がなぜ「甲子園」という名称になったのかを掘り下げてみよう。球場が完成した1924年は「甲乙丙……」ではじまる“十干”と、「子丑寅……」ではじまる“十二支”の組み合わせで決まる『十干十二支』の最初の組み合わせ・甲子年(きのえねのとし)にあたる。この「甲子年」は60年に一度の縁起の良い年であることから「甲子園」と命名されたのだ。

 その後、90年以上に渡って常に多くの観客に愛され続けてきたのだから、まさに縁起のいい球場といえるだろう。球児たちの聖地・甲子園で今年も数々のドラマが生まれることを期待したい。

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