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第4回:長嶋茂雄と松井秀喜〜巨人軍4番の系譜〜

 いよいよ今度の日曜、5月5日に長嶋茂雄・松井秀喜両名の「国民栄誉賞授与式」が東京ドームで行われる。今回の国民栄誉賞が異例なのは、なんと言っても「二人同時受賞」というトピックスのせいだろう。
「監督と選手として苦楽を共にしてきた松井君と一緒にいただけるということであれば、これ以上の喜びはありません」(長嶋)
「私は監督に愛情を注いでいただき、20年間プレーすることができました。ですから、この賞もひとえに監督のおかげです」(松井)
 お互いへの感謝と気遣いのコメントを残す二人はなぜ国民栄誉賞を受賞するに至ったのか。松井秀喜・巨人入団以降の関係性を振り返りながら、改めて考察していきたい。


運命のドラフト

 二人が邂逅することになるのは1992年のドラフト会議。
 折しも1993年のJリーグ開幕前夜。そして相撲界では空前の若貴フィーバーが起こり、「野球人気のかげり」が叫ばれていた時期だった。それだけに、球界の次世代スター候補・松井秀喜の入団先は注目の的だった。
 ドラフトで松井を1位指名したのは阪神、中日、ダイエー(現ソフトバンク)、そして巨人の4球団。しかし、意中の球団が阪神だったことは、松井自身が認めている。
《「中村監督、お願いします。当たりクジを引いてください」と祈っていたものです。しかし、願いは……当時の僕の願いは叶いませんでした》(松井秀喜『不動心』より)

 果たして、松井のクジを引いたのは、このドラフト会議直前に12年ぶりに巨人軍監督に返り咲いた長嶋茂雄。当初、球団としては伊藤智仁を指名する予定だったが、「チームの軸は4番から」という長嶋監督の方針のもと、急遽方針転換がはかられたのだ。長嶋自身はこの松井との出会いを「因縁」と語っている。
《不思議な因縁を感じている。(略)引退した(昭和)四十九年に松井が生まれている。解任の五十五年に松井が一年生で野球を始め、充電後の復帰したこの年にドラフトで出会ったのだ》(長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』より)

 もし、監督が長嶋でなければ松井は巨人入団を拒否したのだろうか? もし、松井を引き当てなければ、第二次長嶋政権が9年もの長期に渡ったのだろうか? そもそも、野球人気は大丈夫だったのか?……それらの「if」は野暮な空想でしかない。2人の出会いは必然であり、運命だったのだ。

松井秀喜「一千日構想」

 自身も巨人軍の4番打者として「V9」を支えた長嶋茂雄。巨人を再び球界の盟主とするためには「圧倒的な4番の存在」が必要不可欠とし、打ち出したのが松井秀喜「一千日構想」だ。
《松井は絶対に四番にしなければと、このキャンプから三年で四番に育て上げる「一千日構想」を立て、基本から嫌というほど鍛え上げた》(『野球は人生そのものだ』より)

 こうして連日連夜・二人だけの特訓が繰り返されることとなった。実際のトレーニング風景について松井の記憶を振り返ってみたい。
《長嶋さんとも、何度も素振りを繰り返しました。ちょっと調子が悪いとき、いや調子がよいときでも、ベッドで寝ていると長嶋さんから電話がかかってきました。「おい松井、バット持ってこいよ」。慌てて着替えて、バットを持って自宅を飛び出したことが何度もあります》(『不動心』より)
 向かう先は、ある時は世田谷の長嶋宅ガレージ。遠征時であればホテルの長嶋部屋。
《長嶋さんはスイングの音をチェックします。それしか気にしていないと言ってもいいくらいです。目をつぶって、僕が振るバットの音だけを聞いていました。(略)鈍い音がすると叱責され、休む間もなくスイングを繰り返しました》(『不動心』より)


イラスト/ながさわたかひろ


 二人だけの特訓を重ねた結果、「千日構想」通りとなる3年後の1996年に初めて「開幕4番」を務めた松井。特に、3年連続で全試合4番を務めた2000年〜2002年の活躍は目覚ましく、2000年には巨人を6年ぶりの日本一に導くこととなる。この年、シーズンMVPと日本シリーズMVPをW受賞したのだが、歴代の巨人軍4番打者で、2つのMVPを同年で受賞したことがあるのは長嶋と松井の二人だけ。まさに、チームを日本一に導く「球界の4番」がここに誕生したのだ。

日本の「ジョー・ディマジオ」

 こうして「球界の4番」となった松井が2002年オフにFA宣言し、大リーグに挑戦することになるのはご存知の通り。だが、ヤンキースを選んだ背景には、長嶋茂雄のある一言も影響している。巨人に入団したその時点で「ジョー・ディマジオのような選手を目指せ」と長嶋に言われ、知らずとニューヨーク・ヤンキースに憧れを抱くこととなったからだ。
 渡米後は日本でのような長距離打者としてではなく、まさにディマジオのような勝負強いクラッチヒッターに変貌を遂げ、チームになくてはならない存在となった松井だが、それはすなわち、現役時代の長嶋茂雄の姿でもある。
 そもそも、長嶋が松井に「ディマジオ」を意識させたのは、自身のプレイヤー時代の教科書も「ディマジオ」だったからだ。長嶋が生まれた1936年にヤンキースに入団し、後に4番を務めることになるジョー・ディマジオ。長嶋は立教大学時代、そのディマジオの分解写真を研究し、自身のプレイヤー像を固めていったという。
《ディマジオはヒューマニティーにあふれ、打ってよし、守ってよし、走ってよしで、強固なメンタリティーも素晴らしい。三拍子も四拍子もそろった右バッターになろうとずいぶん刺激を受けた》(『野球は人生そのものだ』より)

 ニューヨーク・ヤンキースの4番・ディマジオの影響を受け、巨人軍の4番に登りつめた長嶋茂雄。その長嶋から徹底指導を受け、同じく巨人の4番となった松井は、渡米後1年目にしてヤンキースの4番打者を務めることとなる。まさに「巨人の4番」は「球界の4番」であることを証明し、正力松太郎以来の悲願<アメリカ野球に追いつき、そして追い越せ>を実現させたのだ。

 時代も国も超えた「野球の伝統」「4番の系譜」が導いた受賞……それが今回の国民栄誉賞の大きな意義だ。その系譜を次に受け継ぐのは誰なのか。若き長嶋がディマジオに憧れたように、授賞式を目撃する今の野球少年の中にこそ、次世代の「球界の4番」がいるのかもしれない。

<バックナンバー>
第1回:長嶋茂雄とは何だったのか?
第2回:長嶋茂雄と天覧試合
第3回:長嶋茂雄とマンガの世界

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