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?橋光成(前橋育英)も先人に次ぐ活躍を!「甲子園を沸かせた2年生エース」名鑑/第29回

  「Weeklyなんでも選手名鑑」はは、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第29回のテーマは「甲子園を沸かせた2年生エース」名鑑です。

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 夏の甲子園は初出場の群馬代表・前橋育英の優勝で幕を閉じました。センバツの決勝を戦った浦和学院と済美が序盤で敗れるなど、前評判の高かった実力校をフレッシュな新鋭校が破っていった大会となりました。

 さらにフレッシュさを高めていたのが2年生選手の活躍でしょう。特に投手が目を引き、優勝した前橋育英のエース?橋光成を筆頭に、3回戦で散るも甲子園最速タイの155キロを記録した安樂智大(済美)、好投手・山岡泰輔(瀬戸内)に投げ勝った岸潤一郎(明徳義塾)や丸亀戦で毎回の14奪三振を記録した伊藤将司(横浜)などが、大舞台に臆することなく好投しました。

 今回は彼らの活躍にちなんで、これまで甲子園で好成績を残した偉大な2年生エースで名鑑をつくります。


1984年 桑田真澄(PL学園)

 桑田は1年生の夏、東邦の“バンビ”坂本佳一、早稲田実の荒木大輔ら注目を浴びた1年生エースが成し遂げられなかった「甲子園決勝」の壁をあっさり乗り越え全国制覇。2年生エースといっても、場数をしっかり踏んだ実績十分のエースだった。

 1年の秋季大会、連戦の際などは同級生の田口権一にマウンドを譲ったが、それ以外はほぼ一人で投げ、近畿大会を余裕で制する。センバツでは2回戦(対京都西)、準々決勝(対拓大紅陵)で連続完投勝利し、優勝投手の貫禄を見せる。18イニングで1失点、四死球は1と抜群の制球が光った。準決勝(対都城)は桑田が右手親指を痛めていたため田口が先発。しかし相手投手を打ちあぐね、逆にチャンスをつくられる展開に中村順司監督は、0-0の4回から桑田を投入。延長にもつれこんだが11回裏に桑田が打ったライトフライを都城が落球。一塁から走者が生還しPL学園は1-0で辛勝した。

 桑田は翌日の決勝に先発。この日も岩倉の山口重幸との投手戦となる。PL学園打線は山口に9回1安打と完全に封じられ、8回裏にタイムリーを許した桑田は甲子園で初めての敗戦投手となった。だが、この日記録した14奪三振は、桑田にとって甲子園最多である。

 大阪大会を危なげなく勝ち進んだPL学園は、夏も甲子園へ。得点力がいっそう増したPL学園は大勝で準々決勝まで勝ち上がる。松山商とは接戦になったが、桑田が無四球完投し2-1で勝利。準決勝の相手の金足農は、桑田を疲れさせようと、投手前へのバントを多用する策を案ずる難敵。桑田も8安打を浴び8回表まで2-1とリードを許した。しかしその裏、桑田がレフトへ2ランを放ちPL学園は逆転で決勝へ進出する。

 取手二との決勝は、桑田は7回までに4失点する。PL学園は9回に同点に追いつき、1死一塁で4番清原和博、5番桑田に回るチャンスを迎える。しかし、一度マウンドを降り外野に回った取手二のエース・石田文樹が再びマウンドに上がると清原を三振、桑田を三ゴロに抑える意地を見せ延長へ。連投に加えこの日の投球数は150を超えていた桑田。10回表、走者を2人溜めると次打者に高めに浮いたボールを弾かれる。打球は左中間スタンドに吸い込まれ勝ち越される。その裏、PL学園は反撃を見せられず夏連覇の夢は潰えた。

[桑田真澄・チャート解説]


【完成度:4.5】……スライダーやフォークも投げられたが、ヒジなどへの影響を考え、ストレートとカーブのみでやりくりしていたとも言われる。2年生にして出来上がった投手だった。
【登板頻度:4.5】…桑田が2年時に出場した甲子園での11試合中10試合でマウンドに上がった。
【勝負強さ:4】……圧倒的有利とも言われた決勝の舞台で2度敗戦。ただ、桑田や清原の名声が相手を奮起させた面もありそうだ。

【完成度】……2年生エースとしてのまとまり
【登板頻度】…マウンドをどれだけ占有したか
【勝負強さ】…ここ一番で好投したか

を5段階評価した(以下同)。


2005年 田中将大(駒大苫小牧)

 1年時は捕手だった田中将大。夏はベンチ入りできず、当時の3年生による全国制覇をスタンドで見ていた。1年秋は捕手のレギュラーを務めながらマウンドにも立つようになる。駒大苫小牧は北海道大会を制し、センバツ出場はほぼ手中に収めた。明治神宮大会の準々決勝(対羽黒)で田中は公式戦初先発を果たすも4失点して敗れている。

 2年となり挑んだ春のセンバツは初戦(対戸畑)で先発。9回を1失点に抑え甲子園初勝利を挙げた。2回戦(対神戸国際大付)戦は松橋拓也が先発、吉岡俊輔が救援したがいずれも打たれ4失点。田中は6回にマウンドに上り、残り4回を無安打無四死球に抑えたものの、打線が相手の主戦・大西正樹を打てず1安打完封負けを喫した。田中は13回を投げ1失点と安定感を見せ、評価を高めた。

 夏連覇に挑んだ駒大苫小牧は、エース松橋、二番手田中という体制を固める。田中は南北海道大会の準決勝(対駒大岩見沢)で先発し7回で11三振を奪う好投を見せ、決勝(対北照)でも救援した。甲子園に進むと、2試合目となる3回戦(対日本航空)で先発、7回2/3を投げて1失点。準々決勝(対鳴門工)では、3失点した松橋に代わり、3回途中から登板。6回1/3で12三振を奪う気迫を見せるも、7回表に3失点。1-6とされたが、その裏、味方打線が5安打を集め6点を奪う猛攻を見せ逆転勝利。準決勝(対大阪桐蔭)は田中が先発するが5失点。同点とされた8回途中にマウンドを降りたが、前年秋に1番を付けていた吉岡が好救援を見せ勝利する。決勝(対京都外大西)は1-1 の5回途中から松橋を救援。2点を失ったが味方の援護もあり5-3で最終回へ。この大会で成長を果たした田中は、2年生の甲子園最速(当時)の150キロのストレートで圧倒し、三者三振で試合を終わらせ、駒大苫小牧は史上6校目の夏連覇を達成した。田中は「あの試合の8回ぐらいから、自分の中で感じるものがあった」「押し込む力とか、体重の移動とか」と後に述べている。2年夏の決勝戦は、田中が投手として覚醒を果たした試合だったと言うことができるだろう。

[田中将大・チャート解説]


【完成度:4】………1年秋までは2番を背負い捕手を務めていた。2年生の1年間をかけて投手として覚醒していった。
【登板頻度:3.5】…徐々に登板は増えたが、投手が豊富にいた駒大苫小牧において2年時の田中は2番手〜3番手の位置づけ。
【勝負強さ:5】……1登板ごとに力をつけ、甲子園の決勝という舞台すら成長の場にした。最終回の3三振は鬼気迫るものだった。


1961年 尾崎行雄(浪商)

 甲子園における“2年生エース”の元祖といえば、怪童・尾崎行雄となる。大阪を代表する強豪だった浪商(現大体大浪商)で、1年よりエースを務めていた尾崎は、入学年の夏に甲子園に初出場。初戦(対西条)に勝利し、2回戦でぶつかったのがライバルとなる柴田勲がエースを務める法政二。当時、柴田はまだ2年生で、こちらも2年生エースの代表でもあった。1年生と2年生の投げ合いは、7回までゼロ行進。しかし、8回表に尾崎が捕まり4失点。浪商は柴田から点を奪えず完封負けした。柴田と法政二は勢いに乗り全国制覇を達成する。

 翌年春、2年生となった尾崎は再び甲子園へ。センバツの初戦(対日大二)は17奪三振で完封勝利。2回戦は同じ大阪の明星を再び完封。三振も14個奪う。前年の夏は2試合で6個だった三振が31個へと激増。一冬越した尾崎が投げるボールは力強さを確実に増しており「低めに投げると砂が舞った」という噂すら飛び交った。

 準々決勝に進んだ尾崎と浪商は、再び法政二と対戦。3年となった柴田へのリベンジの機会を得る。尾崎はこの試合でも11奪三振を奪う熱投を見せたが、3点を失う。柴田は下痢で不調でありながら1点に抑え込む好投を見せ、浪商はまたも敗れた。

 柴田を倒す最後のチャンスとなった夏、尾崎は大阪大会を圧倒的な強さで勝ち上がり甲子園に戻ってきた。初戦(対浜松商)は15奪三振で完封勝ち。2回戦(対銚子商)は8奪三振ながら完投。準々決勝(対中京商)は14点を奪う大勝。尾崎は先発し、無失点のままマウンドを譲っている。

 そして迎えた準決勝、浪商は三度目の法政二との決戦に挑む。法政二が初回に先制、4回に1点を奪う。浪商打線は柴田に封じられ8回まで1安打。しかし9回に2死満塁のチャンスをつくると、尾崎が自らタイムリーを放ち同点に。そして延長11回表にまたも尾崎が打った犠飛などで2点を勝ち越した浪商は、その裏を締めて4-2で勝利。ついに法政二を破った。決勝(対桐蔭)でも先発した尾崎は被安打3、13奪三振のほぼ完璧な投球で1-0の勝利を呼び込む。浪商は念願だった法政二の打倒と全国制覇を成し遂げた。

 尾崎は、その年卒業したライバル柴田を追うかのように、2年秋で高校を中退。11月には東映に入団した。17歳のルーキーはプロでも大活躍。1年目から20勝を挙げる、まさに“怪童”の呼び名にふさわしい活躍を見せた。入団から6年で104勝を挙げた。しかし、酷使がたたりその後成績を一気に落とし、7年目からの6年間で挙げた勝利はわずかに3勝。あがいた末に29歳で引退する決断を下した。

[尾崎行雄・チャート解説]


【完成度:5】……ストレートは当時の映像の解析から159キロが出ていたとも言われる。そして、2年で中退し翌年からプロでエースと呼べる活躍をした。
【登板頻度:5】…甲子園で戦った10試合すべてに先発。マウンドを譲ったのは1試合のみ。他の試合はすべて完投していた。
【勝負強さ:5】…3度目の挑戦ながら、きっちりライバルに勝利。自らタイムリーを放ってもいる。


そのほかの「甲子園を沸かせた2年生エース」たち
1957年 王貞治(早稲田実)
 1年夏に甲子園初出場し、秋にエースとなる。2年春は3試合連続完封で決勝進出。決勝(対高知商)でも完投勝利し関東初のセンバツ制覇。2年夏も甲子園に出場。2回戦(対寝屋川)で延長11回をノーヒットノーラン。8強に残ったが法政二に敗れた。

1963年 池永正明(下関商)
 2年春から3年春にかけて3季連続で甲子園へ。2年春に優勝、夏に準優勝を果たした。夏の2回戦(対松商学園)では7回にヘッドスライディングで左肩を脱臼。それでもマウンドを降りずに完封勝利した。

1976年 小松辰雄(星稜)
 PL学園を破り、桜美林が優勝した年に準決勝進出。桜美林に敗れはしたが、注目を集めた。

1978年 森浩二(高知商)
 2年夏に決勝に進みPL学園と対戦。8回まで3安打無失点に抑えたが2-0で迎えた9回裏に3点を失いサヨナラ負け。その後は阪急に進み、引退後はオリックスで打撃投手、合宿所の寮長を務めるなどしている。

1989年 宮田正直(上宮)
 2年春、元木大介(元巨人)、種田仁(元中日ほか)など強打者を擁する上宮でエースを務めた。東邦に敗れたが準優勝。夏も8強入り。

1993年 土肥義弘(春日部共栄)
 2年夏に5試合を投げ抜き徳島商や常総学院などを破って決勝進出。育英には敗れたが準優勝。全試合で完投した。

2003年 ダルビッシュ有(東北)
 2年春夏、3年春夏と4度甲子園に出たが、最高成績は2年夏の準優勝。

2004年 福井優也(済美)
 2年春に創部3年目、初出場初優勝に貢献。全5試合に先発し、4試合で完投。夏も甲子園に出場すると準決勝までの4試合を1人で投げ抜き、決勝では駒大苫小牧に打ち込まれマウンドを譲ったが準優勝。

2012年 松井裕樹(桐光学園)
 2年夏に初の甲子園出場。1回戦(対今治西)で22奪三振を記録。2回戦(対常総学院)でも19奪三振を挙げて注目を浴びた。準々決勝(対光星学院)でも15奪三振と好投したが0-3で敗れた。

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 2年生エース自体はそこまで珍しいものではない印象がありましたが、甲子園で結果を残すレベルとなると、かなり希少な存在であるようです。

 興味深いのは王貞治が「投手としては2年の時がピークだと感じた」といった意味の話をしている一方で、田中将大は「(2年夏の決勝戦で)自分の中で感じるものがあった」と投手として何かコツをつかんでいたりすること。好投し、好成績を残している投手同士でも、手応えはまるで違う。どんな成長曲線が描かれるかは、選手によって、取り組むトレーニングによって千差万別なのでしょう。2年生はそのバラツキが大きい時期だったのかも知れませんが、高度で効率的なトレーニングが一般化したら、もっと多くの高校からスーパー2年生が登場するようになるのかもしれません。


文=秋山健太郎(スポーツライター)
イラスト=アカハナドラゴン

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