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第10回 「あの選手の初タイトル」名鑑

「野球なんでも名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第10回のテーマは、「あの選手の初タイトル」名鑑です。

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 先日行われたプロ野球コンベンションにて、今シーズンの個人タイトルの表彰が行われました。獲得した面々を眺めると、まず目についたのが最優秀防御率を獲得した吉川光夫(日本ハム)や首位打者となった角中勝也(ロッテ)など新顔と呼ぶべき面々。そして打率と打点の二冠王となった阿部慎之助や最多安打の坂本勇人(ともに巨人)ら好成績は残してはいたものの、タイトルを獲るのは初めてという選手が多かったように映りました。
 これはダルビッシュ有(レンジャーズ)や青木宣親(ブルワーズ)、岩隈久志(マリナーズ)など有力選手のメジャー行き、統一球の導入、世代交代の波など複数の環境変化の要因がもたらしたもののように感じられます。「新たなスター=タイトル獲得者の登場」は、その選手の能力も去ることながら、球界のパワーバランスの変化もうかがわせます。今回は、過去の有力選手の「初タイトル獲得」を振り返ってみます。

1975年[本塁打王]田淵幸一(阪神)

 東京六大学のヒーローとして阪神入りした田淵幸一の初、そしてキャリア唯一のタイトルは75年の本塁打王だ。「1975年」は6歳年上の長距離打者の壁となっていた「王貞治がケガした年」として知られるが、王は欠場を重ねたわけではなく128試合に出場している。打席数も8打席しか差はなく、そういう意味では田淵はちゃんと王に勝っている。また、田淵の43本に続くのは、王(33本)ではなくシピン(大洋)で34本。
 40本塁打を越える長打力による29歳の田淵の初の戴冠は、35歳になっていた王から打者のタイトルを完全に奪い去ることも予想された。だが、王は翌年49本、翌々年50本と完全復活したため、田淵による世代交代は果たせなかった。
 ちなみに5年後の80年、西武に移籍していた田淵は43本塁打して復活するがソレイタ(日本ハム)が44本、マニエル(阪急)が48本と外国人選手の後塵を拝し、タイトルを逃している。

[田淵幸一・チャート解説]


 29歳は選手として脂の乗った時期でタイトル獲得には妥当な時期。早熟度は低く3。このタイトル活躍は王貞治の14年連続本塁打王の記録を途絶えさせた意味は大きい。ただ、次の世代として新しい時代に入る足がかりをつくりながら、翌年以降は再び王が巻き返した。新時代性は2。記録を途絶えさせ、また田淵自身の長いキャリアの中の唯一のタイトルという意味で記憶には残るものである。インパクトは5。

チャートは、「初タイトル」獲得時の選手の若さを計る「早熟度」、さらにその獲得が時代の転換点になったかどうかの「新時代性」、獲得そのものの印象がどれだけ鮮烈だったかの「インパクト」を5段階評価したもの(以下同)。


1958年[本塁打王・打点王]長嶋茂雄(巨人)

 記録よりも記憶に残る長嶋だが、それでも首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回を獲得。このうち2つをルーキーイヤーで獲っている。それも最も多く獲得することになる首位打者ではない、本塁打と打点の2冠だったのは意外かもしれない。この年、打率は田宮謙次郎(大阪)がトップで長嶋は2位。本塁打と打点の2位はやはりルーキーだった森徹(中日)。森は翌年2冠(本塁打・打点)を獲っている。ルーキー2人による打撃成績上位を席巻は、実に印象的だったことだろう。青田昇(大洋)宮本敏雄川上哲治与那嶺要(いずれも巨人)藤村富美男(阪神)など前の時代の主役たちからスターの座を奪う、そのきっかけとなったのが、この58年の長嶋の2冠だった。その後、長嶋と森以外にも、王貞治(巨人)や江藤慎一(中日)桑田武(大洋)らスターが続々と登場し、完全に打撃成績上位の顔ぶれは入れ替わることとなる。

[長嶋茂雄・チャート解説]

 ルーキーイヤーに2冠王となったのはこれまで例がない。打者のタイトル獲得は59年に本塁打王となった桑田武(大洋)がいるのみという偉業。早熟度は5。58年以降、プロ野球は間違いなく新しい時代に突入した。新時代性も5。これらを合わせて考えるとインパクトも大きくやはり5とすべきか。


2012年[首位打者・打点王]阿部慎之助(巨人)

 毎年捕手としては高いレベルの成績を残してきた阿部だが、現役生活11年間タイトルとは無縁だった。ペタジーニ、ラミレス(ともにヤクルトほか)、ウッズ(中日ほか)ら外国人選手、福留孝介(中日)、今岡誠、金本知憲(ともに阪神)、青木宣親(ヤクルト)、内川聖一(横浜ほか)ら好打者が居並ぶセ・リーグで、守備の負荷の大きい捕手としてプレーしながらトップに立つのは至難の業だったといえる。だが、外国人選手が加齢で成績を落としたり、日本を離れていったり、福留や青木がメジャーに挑み、内川はパ・リーグ球団へ移籍。そして、統一球の導入により限られた打者だけがトップクラスの成績を維持できるという状況が訪れた結果、阿部にタイトル獲得のチャンスが訪れた。これまで阿部がタイトルに近づいたのは、2007年に33本塁打を放ち、トップの村田修一(当時横浜)に3本差に迫ったケースなど多くは「本塁打」だった。しかし2012年は打率と打点で独走し、タイトルを獲った。統一球環境下での.340という打率は驚くほかないが、打点増は長野久義、坂本勇人という最多安打を分け合った2人の打者の存在が大きかったと推測できる。

[阿部慎之助・チャート解説]

 入団前から騒がれたゴールデンルーキーながら12年目の初タイトルはかなり遅く感じる。早熟度は2。多くの選手が統一球にいかに対応するかというテーマに取り組む中で、導入以前の基準から見ても遜色ない好成績は素晴らしいが、これが今後の「打低」解消の契機となるかどうか? 現状は3としておく。日本一となった巨人の主将としての存在感は大きかった。三冠王への挑戦も話題を集めたのでインパクトは5。


そのほかの「あの選手の初タイトル」

1957年[本塁打王]野村克也(南海)
 高卒4年目の22歳のシーズンに30本塁打でタイトル獲得。山内和弘(毎日)との競り合いを1本差で制した。打点は94で2位(1位は中西太(西鉄)で100)。打率は.306で6位(1位は山内で.331)。その後、パの成績上位に長らく顔を出し続けた。早4/新4/イ4。

1957年[最多勝・最優秀防御率]金田正一(国鉄)
 17歳でプロ入りした金田は8年目の25歳のシーズンに28勝、防御率1.63で初タイトル獲得。この8年間で188勝を挙げておりタイトルこそ獲っていなかったが、すでに超一流だった。この年と前後の年の防御率については2位の堀内庄(巨人)が1.71に迫り僅差だった。金田のタイトル獲得は最多勝3回、最優秀防御率3回の計6回だが、奪三振では10度トップになっている(当時表彰はなし)。早4/新3/イ4。

1962年[本塁打王・打点王]王貞治(巨人)
 一本足打法をマスターした高卒4年目の22歳で獲得。本塁打は38本、2位で25本の長嶋を大きく引き離した。打点は85でこちらも2位は長嶋(80)。打率は.272で9位。この年のトップは森永勝治(広島)で.307。長嶋は打率では上回り.288。王はこの後14年間本塁打王を獲り続けた。早4/新5/イ4。

1968年[最多勝]江夏豊(阪神)
 プロ入り2年目の20歳で25勝を挙げて獲得。329イニングを投げて401奪三振という驚異的な記録もあわせて残している。この年の勝ち星2位は安仁屋宗八(広島)で23勝。江夏は防御率では3位(2.13)。なお江夏の先発でのタイトル獲得は最多勝2回、最優秀防御率の1回の計3度だけ。最優秀救援は70年代から80年代にかけて5度受賞。早5/新4/イ4。

1970年[盗塁王]福本豊(阪急)
 プロ入り2年目の1970年、レギュラーに定着し127試合に出場、打率.274を記録する。多くの出塁機会を得た結果、俊足を生かすチャンスも生まれ75盗塁に成功した。以降13年間盗塁王を守り続けた。早4/新4/イ4。

1975年[最優秀防御率・最多セーブ]村田兆治(ロッテ)
 1967年のドラフトでロッテに1位指名を受け入団。4年目の71年に12勝、74年にも再び12勝を挙げ日本一に貢献。その翌年の75年には先発と救援両方を務め9勝13セーブ。2.21で最優秀防御率、さらに前年より表彰のはじまった最多セーブを受賞しこれが初のタイトルとなる。救援でタイトルはこの1度だけ。早3/新4/イ3。

1976年[盗塁王]衣笠祥雄(広島)
 ジョー・ルーツ監督による赤ヘル旋風の翌年にあたる1976年、28歳にして初のタイトル、盗塁王を獲得(31個)。5年目の69年にも32個を記録している。このときは35盗塁でトップだった柴田勲(巨人)に阻まれタイトルを逃した。それ以外のタイトルは84年の打点王(102)のみ。早2/新3/イ2。

1981年[首位打者]落合博満(ロッテ)
 プロ入り3年目のシーズン打率.326で首位打者になったのが初タイトル。2位は島田誠(日本ハム)で.318。本塁打は33本で3位、打点は90で4位と翌年の三冠王獲得への前段とも言うべきバランスのよい成績を残していた。早3/新5/イ3。

1988年[最多勝利打点]清原和博(西武)
 無冠の帝王・清原だが、1981年から88年までの期間だけあったタイトル「最多勝利打点」を最後の年に獲得している。「試合における最後に勝ち越し」をもたらした打点の数を評価したものだが、基準の価値に疑問が投げかけられ表彰はなくなった。ただ、清原の勝負強さを示すひとつの要素だったとは言えるのかもしれない。早4/新2/イ2。

2012年編 [最優秀防御率]吉川光夫(日本ハム)
 高卒でプロ入り後5年間で6勝と燻っていたが突如覚醒。173イニングを投げ14勝、統一球の恩恵を受けながらも防御率は1.71を記録、チームのリーグ制覇に貢献しながら初タイトルを手にした。早3/新3/イ5。

[首位打者]角中勝也(ロッテ)
 四国ILよりNPB入りして4年目で42試合、昨年ようやく51試合の出場機会を得たという存在だったがブレイク。128試合に出場し打率.312。終盤は中島裕之(西武)とのデッドヒートを経て首位打者に。早3/新3/イ5。

[最多奪三振]能見篤史(阪神)
 社会人野球を経たため8年目ながら33歳という遅咲きの能見が、持ち味の奪三振能力を1シーズンにわたり発揮し初タイトル(172個)。昨年も186個と好成績を残していたが前田健太(広島)との競争に敗れ獲得できていなかった。最後はローテーションを変えてタイトルを獲らせにいったチームのサポート得て獲得に成功した。早1/新3/イ4。

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 過去の選手については、インパクトが大きく周知の事実である獲得事例よりも、マイナーなタイトル獲得や、他の大記録の影となり、語られることが少し少ない獲得事例を多めに選びました。
 それにしても、やはり1年目に二冠王を獲ってしまった長嶋茂雄のインパクトは大きなものだっただろうなと改めて思います。投手が入団間もなく活躍するケースは今も結構な数見られますが、打者でルーキーイヤーからタイトルを争うレベルでプレーできた選手はほとんどいないからです。ただ、阿部のケースを見てもわかるように、トップクラスの選手がNPBから去ったり、こぞって力を落とすようなケースと用具の変更などが相まって、選手のブレイクを演出していることもあるのかもしれません。長嶋が活躍した年、リーグ全体のパワーバランスがどのようなものだったのか、にまで目を向けると、また違った見え方になるのか? もしくは「やっぱり長嶋はすごかった」という結論に回帰するのか? 今後調べてみたい部分でもあります。

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