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第15回 「キャンプといえば……」選手(監督)名鑑

「Weeklyなんでも選手名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第15回のテーマは、「キャンプといえば……」選手(監督)名鑑です。

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 日本プロ野球界の元旦2月1日に、12球団が一斉にキャンプイン。1カ月弱のキャンプ、オープン戦を経て、今年は3月29日の開幕戦に向かいます。キャンプの報道では、シーズンが始まってからだと取り上げられないような、練習の日々を送る選手たちの素顔が伝えられることも多く、印象深いニュースも多いものです。今回はキャンプで選手が関わって起きた様々な出来事をまとめてみます。

長嶋茂雄監督(巨人)

 永久欠番である巨人の背番号3。その持ち主である長嶋茂雄が巨人の監督を務めていた2000年。背負っていた33番をFAで広島から入団した江藤智に譲ることになり、自らがもう一度「3」を背負うことが決まった。マスコミやファンは「3」を背負った長嶋監督を見ようと宮崎キャンプに連日押し寄せた。しかし、長嶋監督はなかなかグラウンドコートを脱いでユニフォーム姿にならず、周囲をやきもきさせた。
 グラウンドコートを脱いだのはキャンプが始まってから12日が経った2月12日の午後2時34分。5万5000人が集まった宮崎県総合運動公園で、江藤智に自らノックを打つべくコートを脱いだ。1974年の引退以来、26年ぶりに見せる「3」に宮崎は沸いた。
 “長嶋サン”らしい演出とも言われているが、長嶋監督は早い段階で「3」を披露するつもりだったようだ。しかし、これほどまで話題になるとは思っておらず「脱ぎづらくなった」というのがここまで引き延ばされた理由と言われている。
 この日集まった報道陣は299人。もちろんスポーツ紙以外のメディアも数多く取材に訪れた。連日の報道に、長嶋の現役時代を知らないファンも、日本人にとっての「3」と「長嶋」の存在感を知る出来事だったといえる。
 ご存知の通り、この年の巨人は打っては江藤、松井秀喜、高橋由伸らが長打力を発揮し200本超の本塁打を放った。投げては工藤公康やダレル・メイ、上原浩治らが好投し、リーグ制覇。日本シリーズでも王貞治監督率いるダイエーを下し日本一に輝いた。

[長嶋茂雄/チャート解説]

 5万5000人は球団史上最高のキャンプへの来場者だとされる。多くのメディアも宮崎に呼び寄せた出来事は、球界の枠を越え社会の関心事として扱われた。「ファン熱狂度」「時事性」はともに5。さらにシーズンに入っても巨大戦力をしっかり機能させ、ミレニアムVを達成。キャンプでの熱狂は結果にも繋がった。「シーズン影響」も5。なお長嶋監督は翌2001年に2位となり勇退した。現在のところユニフォームを着た最後の晴れ舞台がこのシーズンとなる。

チャートは、開幕を前に高まった「ファン熱狂度」、球界もしくはその枠を越えどれだけ注目を浴びたかニュース性を計る「時事性」、さらに選手が関わった出来事がどれだけ成績に影響をあたえたかの「シーズン影響」を5段階評価したもの(以下同)。


ロバート・ローズ(横浜-ロッテ)

 2002年オフ、横浜ベイスターズで輝かしい成績を残し2000年に引退したロバート・ローズのロッテ入団が決定。当時29年間優勝から遠ざかっていたロッテは、Bクラス常連だった横浜を優勝争いできるチームへと変えた助っ人外国人の力に期待を寄せていた。ローズは2年間プロの舞台から離れていたが、高校の野球部を指導しながらウエートトレーニングを継続しており、ロッテは「まだやれる」と評価。山本功児監督(当時)自ら渡米し交渉して獲得にこぎつけていた。
 2003年、鹿児島でのキャンプが始まるとローズはパ・リーグの投手のビデオを取り寄せたり、坊主頭にするなど意欲を見せ、フリーバッティングでは快音を響かせた。しかし、ブランクが響き紅白戦3試合でヒットゼロ。さらに再来日した家族が新居になじめず精神的に不安定な状況になっていった。
 そもそも家族との時間を求め球界を離れていたローズにとって、それは大きなストレスに。キャンプインから約2週間が経った2月17日、球団に「妻に会いたい」と告げ帰京。そして19日、帰国するために向かった成田空港で、報道陣に対し退団の意志を伝えた。
「私生活の問題もあったが、ひと言で言えば野球への情熱がなくなった。グラウンドで150%の力を出すのが野球選手。それが出せなくなったということ」
 キャンプの最中に、「4番・セカンド」を予定した主軸を失ったロッテは、二塁に堀幸一が入り、リック・ショート、緊急獲得したホセ・フェルナンデスらでこの内野の穴を埋めようとした。3選手はそろって3割もしくはそれに近い打率を残したため、結果的にロッテはうまくローズ退団に対処できたというべきだろう。偶然だが、この2外国人は2人とも翌々年誕生する楽天でプレーした。

[ロバート・ローズ/チャート解説]

 ブランクはあるとはいえ、実力者の加入に期待していたファンは多かった。しかし時は2度目のバレンタイン時代を迎える直前、地域密着は図られつつあったが、ロッテは今と比較すれば地味な印象の球団だった。最強助っ人の1人とはいえ35歳のローズ加入はニュースとしては地味だった。「ファン熱狂度」は4、「時事性」は3。キャンプ途中の主軸の退団でチームは緊急的な対処を強いられた。結果的に補強選手が活躍したが、計画は大きく狂った。「シーズン影響」は5。


元木大介(巨人)

 「“元木リタイア”のニュースを聞くと、キャンプが始まったなと思う」
 そんな声も聞こえてくるほど、元木大介はキャンプでのリタイアが多かった。1993年には風邪と腰痛で、94年は寝違えとぎっくり腰で離脱。そして95年はキャンプ2日目にして右太ももを肉離れ。3年連続のリタイアには、さすがに長嶋茂雄監督も激怒した。そして4年連続が懸かった(?)96年、「最低でも1クール、4日間は…」とテレビ取材に冗談めかしてキャンプを迎えると、3日目に首を寝違えて練習を早退。早々に記録を更新した。
 ゴールデンルーキーとして巨人に入団しながら、半レギュラーとしての選手生活を送った元木。その不完全燃焼感はこのキャンプでの出来事と結びつけられがちだ。「節制していればもっと活躍できた」「準備がなっていないから1シーズン通して働けない」そんな言葉もよく聞かれるが、実際このリタイア記録を築いた93年からの4年間、元木は100試合に満たない出場に終わっており、首脳陣からの信頼を得られなかった。選手としてのピークを迎えたのは97年から2001年にかけてで「リタイア記録」が途絶えてから。その見事な符合が、元木の“ちょっとムラっけのある選手”のイメージを決定づけている気がする。
 ただ、身体に少しでも違和感があれば、メディカルスタッフにきちんと伝え共有していくことはコンディション管理の基本でもある。元木がプレーしたのがその分野の発達が著しい現在の球界だったり、また巨人という人気球団でなければ、リタイア=不摂生という見方はされなかったかも。

[元木大介 チャート解説]

 特に4年連続リタイアが懸かっていた96年などは報道陣の(違う意味の)注目を浴びたが、ファンは鳴り物入りで入団した若手が毎年キャンプを全うできないことにはがっかり。「ファン熱狂度」は3、「時事性」は4。リタイアしていた4年間は開幕スタメンも、シーズン100試合出場もない。22歳から25歳という身体的に瞬発力を生かせる時期に、チームの戦力になれなかったことは内野手としては痛かった。「シーズン影響」は5。


その他の「キャンプといえば……」選手たち

「ドラマ」小林繁(巨人-阪神)
1979年1月31日、キャンプ地である宮崎に向かおうと羽田空港に着いたが、球団職員に呼び止められ、移動したホテルで江川卓とのトレードを通告される。荷物だけが宮崎へ届くというドタバタの中「ボクが阪神に行けば収まるんでしょ」とその日のうちに話を受諾。2月11日に阪神に合流すると、高知県の安芸市営球場には1万2000人が集まった。球場へつながる国道55号線は3キロを超える渋滞が発生したという。


「大ケガ」門田博光(南海)
1979年2月16日、キャンプ地の高知県黒潮町の大方球場にて、準備運動でジャンプをして着地した瞬間、アキレス腱を断裂。門田30歳の出来事だった。当時チームにいた唯一のトレーナーも適切な処理がわからず、戸板に乗せて病院に運ばれた。この年の9月に復帰、翌80年には41本塁打を放ちカムバック賞を受賞した。
アキレス腱の故障は後に人工芝である平和台球場が本拠地のダイエーへの移籍を踏みとどまらせるといった影響が出た。


「確執」広岡達郎
1986年、キャンプ期間最大の話題は西武に入団した清原和博。V9戦士・森祇晶の監督就任というニュースも重なり、西武のキャンプ地だった高知県春野市には、評論家が集結。2月10日には川上哲治、藤田元司といった巨人の重鎮に300勝投手鈴木啓示が訪れた。そしてもう1人やってきたのが西武前監督で球団や森と対立し退団した広岡達郎。広岡は解説者として取材を行っていたが、森とは冷戦状態を継続。お互いを無視したまま1日を過ごし、やりにくそうな顔を見せる選手も……。


「去就」瀬戸輝信(広島)
1995年、沖縄で行われていた広島のキャンプに参加していたが、開始直後の2日に「プロでやっていく自信がなくなった」と突然引退を表明。その日のうちに実家のある福岡に戻ったが、3日に翻意した。引退表明も翻意も、明確な理由は今も謎。

「迷言」エリック・ヒルマン(巨人)
1998年、巨人と2年5億という巨額の契約を結び、その2年目を迎えていたヒルマン。2月12日にフリー打撃に登板、その内容はかなりよかったが、終了後「肩が痛い、違和感がある」があるとしきりに話すようになる。その程度を「 (力士の)小錦に乗っかられたような感じ」と独特な表現をして話題になった。


「スター」イチロー(オリックス)
1999年2月、イチローはオリックスと提携していたシアトル・マリナーズがアリゾナ州で行うキャンプに星野伸之、戎信行らと参加。ケン・グリフィーJr.らからメジャーでのプレーを薦められたイチローは「1日にして日本へ帰りたくなくなりました」とコメント。
途中スペアリブを食べて食あたりを起こし「日本とは異なるタフな環境で、毎試合出場を求められる日本人野手はやっていけるのか」といった指摘もされたが、2年後の2001年、マリナーズに移籍したイチローはそうした懸念を見事に払拭した。


「しごき」落合博満監督(中日)
中日の監督就任2年目となる2004年より始めた、約1時間に及ぶハードな個人ノックがキャンプの名物に。井端弘和、荒木雅博、森野将彦ら中心選手の守備力を高め、中日の強みとして伸ばしていった。


「珍事」星野仙一監督(楽天)
2011年2月1日、沖縄県久米島町でキャンプの初日を終え、宿舎へと1人歩いて帰る途中で道に迷う。通りかかった地元の小学生に道案内されて宿舎へたどり着き「命の恩人」と感謝。


★   ★   ★

 キャンプのニュースで最もよく取りあげられるのは、何と言ってもその年からプロ野球選手になる新人選手たちでしょう。今年で言えば大谷翔平(日本ハム)や藤浪晋太郎(阪神)、さかのぼれば2011年の斎藤佑樹(日本ハム)、2010年の菊池雄星(西武)、1999年の松坂大輔(西武)などなど、初々しいスターが現れるとその在籍球団のキャンプ地は大変にぎやかになり、ニュースなどでも一挙一動が報じられるものです。
 そして、チームを指揮する監督にスポットライトが当たるのも、キャンプの特徴。キャンプは選手にとっては試合のための準備期間ですが、監督ら首脳陣は選手の能力を見極め、どう起用するかを決定する場。言ってしまえば結果と直結するシーズンの一部と見なせる作業を行っているわけです。
 そうした構想や決断を聞き逃すまいと張り付いている報道陣は、雑談などを通じ、人となりを含めた指揮官に関するさまざまなネタを拾い、ニュースにしています。これも「監督ネタ」が多く取り扱われる理由の1つかと思われます。
 また、キャンプのスケジュールには、監督のスタンスが読み取りやすいという理由もありそうです。ほかに、落合監督のように独特の練習法が恒例化し、注目を浴びることも。ノックでは長嶋監督が、その年期待をかけている選手に対し重点的に行うところがあったため「その対象選手が誰か」に注目が集まることもあったようです。
 アメリカに比べ倍程度の長さのキャンプは外国人選手にとっては厳しいものらしくトラブルは絶えません。ローズやヒルマンだけではなく、多くの外国人選手が、うまくなじめす苦労しているケースをよく見ます。
 その他、一時引退表明をした広島の瀬戸の例からうかがえるのは、キャンプ期間は選手にとって悩みの期間であるということ。2010年にはキャンプ期間中に小瀬浩之(オリックス)が自死するという悲劇もありました。
 ファンにとってキャンプは、訪れるシーズンを前に多少現実を無視しながらでもさまざまな予想が楽しめる自由な期間。どこか期待から上がってくる話題が多いですし、シーズンとはまた違った空気が漂っている気がします。

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