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<85歳の関根さんとトークライブを敢行・中編>

 前回に続いて、関根潤三さんをお招きしたトークライブの模様をお伝えします。今回は、関根投手にとって不可欠だった捕手にして親友、故・根本陸夫氏の話から。

 根本氏といえば、[球界の寝業師]という異名で知られた野球人。編成のトップとして西武の黄金期を築き、ダイエー(現ソフトバンク)の土台を作った方です。
 もっとも、学生時代は素行不良な面が目立ち、茨城県水戸市の茨城中(現茨城高)を退学に。その後、監督の藤田省三氏に拾われる形で、関根さんが所属する日大三中(現日大三高)に転入したのだそうです。
 余談ながら、僕は茨城高の出身で、根本氏を偉大なる野球の大先輩と崇めているのですが、そのことを関根さんに伝えると、「あ、そうですか。なんか不良少年が多いんだって?(笑)」と返されて話が始まりました。


▲ときに面白過ぎる語り口。思わず笑い崩れしてしまった。

「根本っていうのは本当にいい男。僕、あいつのおかげで一人前のピッチャーになった。というのは、僕は投げるのが好きで、しょっちゅう、根本相手にほうってたんですよね。そうするとねぇ、根本がきっちり相手してくれる。自分のバッティング練習の時間もないんですよ。
 ある日ね、僕が暴投かなんかしたとき、根本がほっとボールを捕りにいった。そのときにふっと見たら、ユニフォームが、おしりの辺りが、血で真っ赤。座り続けて、痛かったろうなと思うんですよ。でも、それを僕に知らせないで捕ってたんですね。あの真っ赤なのを見たときは驚いて、参ったね」

 日大三中卒業後、関根さんは藤田省三氏が監督の法政大、根本氏は日本大に進学。根本氏は東都大学リーグで首位打者になるなど活躍していましたが、その後に転機がやってきました。

「僕とバッテリーを組んでいた先輩の吉村さんが卒業しちゃってね。法政の藤田監督が、『おまえ、今のうちのキャッチャーで大丈夫か?』って言うから、『嫌だ』って言ったんですよ。『誰がいい?』って聞かれたから『根本がいい』って答えたんですよ。
 そしたら監督、『そうか』って言ってね。マネージャー呼んで、『関根が、根本がいいっつうから連れて来い』って言うんだよ。相手は日大の学生ですよ。ひどいよね(笑)。
 根本にすれば、恩師の命令で『日大やめて来い』って言われてるようなもんでしたけど、すぐ「はい」って言って来てくれた」

 今では考えられない“引き抜き”……。当時は許される部分があったようですが、ともかく、こうして再び組まれたバッテリー関係、プロ野球でも続くことになります。
 1リーグだったプロ野球が、セントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂した1950年。パ・リーグの新球団=近鉄の監督に藤田省三氏が招かれると、関根さんも根本氏も、監督に呼ばれる形でプロ入りしたのです。

「藤田監督に『来い』と言われたら『はい』って返事するしかない。恩師ですから、それはもう、そういうものなんです。ただ、僕はその前に社会人の八幡製鉄に決まっていたんで、プロで野球やる気はなかった。あこがれもなく、プロ入りは自分の考えと違うほうへ行っちゃってるから、練習とかに行く気もあんまりない。それでも、プロと契約して多額のお金が入っちゃったもんで、だいぶ遊びました。若いのがお金いっぱいもらっちゃ、ダメだね(笑)」

 新人にも関わらず、豪遊していた関根さん。藤田監督に「いい加減に来い」と言われてチームに合流したのが、開幕の10日ほど前。それでも、いきなり開幕3戦目に先発デビューを果たしたところが、練習不足のために左肩を痛めてしまったのです。以来、球の力がなくなって、軟投派に転身したといいます。

「当時、20勝しないとピッチャーじゃないという時代だった。だから僕自体、20勝する気でいました。それがね、いっくら練習を一生懸命やっても、女を断って、タバコを断って節制しても20勝いかないんですよ。17、8ならいけるか、というところで終わっちゃう。ダメだな俺は、これだけやったって、ピッチャーになれねえでピーで終わるなっていう気持ちになった。そんな時にポッと、転向の話が出たんですね」


▲通算65勝を挙げた関根投手の勇姿。(文庫本の扉ページより)

 1957年のシーズン途中、関根さんは投手から外野手に転向。当時の監督、さらには根本氏からの薦めもあって決断したという。

「監督はピッチャー関根の限界がわかったんだね、たぶん。こいつはこれ以上は伸びないと。自分でも、ピッチャーとしてのセンスはあんまりない、バッターのほうが合う、とは思っていたんです。」

 投手だったプロ1年目から、5番・ファーストでスタメン出場することもあった関根さん。その後、毎年100打席前後に立って、打率が3割を超える年もありました。当初から“二刀流”に近い形で活躍していたことを踏まえれば、転向=激変ではなかったと思えます。

「僕ねぇ、どうせ野球やるなら、割り合いバッティングがよかったから、ピッチャーやったらバッターもやりたいな、っていうのはあったんです。ピッチャーだけで終わるの、つまんねえなと思ってたの。それで、まだ体力のある間に転向しようと決められた。
 で、監督には、『バッターになったら、俺、クリーンアップなんでしょうね?』って聞いたの。そしたら、『この野郎、そうしないとうるせえからな』って思ったんだろうね。うん、うんってうなずいてた(笑)」

 関根さんの転向1年目、打率はリーグ9位の.284。1962年には初めて3割を超え、翌63年には自己ベストの12本塁打も記録。実働16年で投げては通算65勝だった一方、打っては通算1137安打を記録しています。

「いや、だけどね、長くやってりゃ、それだけ打つよ。だから、まあ、二流の上だな。一流になってないんだ、僕は。ピッチャーとしてもそうだし、バッターとしてもそうだしね。要は中途半端。だけど、限度がそのぐらいなんじゃないかな、僕の場合は。
 ただ、野球は、ピッチャーも楽しいし、バッターも楽しいじゃない? その両方ができる体で産んでくれたっていうのは、親に感謝してる。ある程度、両方がいい形でできたことは非常にうれしかったね」

 ところで、通算1137安打、59本塁打のうち、48安打と3本塁打は、最晩年の1965年に在籍した巨人で記録したもの。パ・リーグの近鉄からセ・リーグの巨人に移籍したときの印象は、果たしてどうだったのでしょうか。

「近鉄は関西の弱いチーム。出来立てです。巨人ってのは老舗ですからね。そりゃあ大きく違います。そのなかでひとつ、巨人はすごいチームだなと思ったのは、選手たちの僕の呼び方」

 関根さんはそのとき38歳。巨人のなかではチーム最年長でした。誰もが呼び捨てにはできないわけで、一体、どう呼ばれていたのか……。

「お父さん、と呼ばれてました。これはミスター、長嶋茂雄が名付け親だったそうです。
 で、何がすごいのかっていうと、僕が巨人に入って、最初、誰かが『お父さん』と呼んだら、みんな『お父さん』で統一されていたこと。つまり、僕が入る前から決めていたわけでしょ?
 移籍してくるプレーヤーに、変な思いさせないで、すっとチームに入れるような呼び方を考えていた。『関根さん』でも変だし、何かないかってね。さすが巨人だって思いました」

 関根さんが「お父さん」だった1965年。ここから巨人のV9が始まるわけですが、65年生まれの僕自身、関根さんの現役時代をまったく見ていません。「見てなくて申し訳ないです」と謝ると、こんな答えが返ってきました。
「いえいえ、とんでもないです。見ないほうがいい(笑)」
(次回につづく)

※次回更新は12月25日(火)になります。


<編集部よりお知らせ>
facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。『野球太郎 No.001』では、板東英二氏にインタビュー。11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行した。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント @yasuyuki_taka

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