ペナントレース最終戦で「現役生活最後の一球」を投じた中日の山本昌。こうして、NPB史上初の「50歳登板」が記録された。広島のクライマックスシリーズ出場がかかった大一番での達成には賛否が分かれるところ。だが、今後まず破られることはない史上最年長記録が生まれたことは間違いない。
なぜ、山本昌は50歳まで投げ続けることができたのか? いくつもあるだろう「長寿の秘訣」の中でも、代表的なエピソードについて改めておさらいしておこう。
イチロー(マーリンズ)をはじめ、野球以外の競技でも一流アスリートたちがこぞって信奉する「初動負荷トレーニング」。山本昌がこの理論に初めて知ったのは1995年、30歳のシーズンだった。
前年まで2年連続で最多勝を獲得し、絶頂期だった山本昌。ところが、1995年からはケガもあって2年連続で1ケタ勝利に。そこで、1996年オフ、藁にもすがる思いで、「初動負荷トレーニング」の考案者である小山裕史氏に教えを請うため、鳥取県のワールドウィングジムの門を叩いた。
その際、山本昌は初対面の小山氏に対して、「140キロが投げられるようになるなら、何千万円でも払います」と訴えたという。果たして翌1997年、山本昌は見事に復活を果たした。本当に140キロの球速を手に入れ、3度目の最多勝を獲得。以降、毎年シーズンオフになると鳥取県のワールドウィングジムで汗を流すのが恒例行事となった。
2002年、山本昌37歳のシーズンに監督に就任したのが山田久志。彼は往年の名投手らしく、投手にはまず「走り込み」を徹底。ベテラン山本昌も例外ではなかった。
年齢も経歴も関係なく、延々と走り込まされる日々。当時は「俺、ベテランだよな。こんなに走ったら体力持たないって」とつぶやいていたというが、後年、その考えを改めている。
「この経験が今、生きている。(中略)量をこなす事実を受け入れ、準備を怠らなければ何歳になっても体は動く」(山本昌・山?武司『進化』より)。
こうして山本昌は40歳代を乗り切るための体力と「準備の重要性」を、40歳手前で手に入れることができたのだ。
山本昌は「粘り強い」性格だと言われている。同じことを何回でも、何十年でも続けられる愚直さがあったからこそ、50歳まで厳しいトレーニングに耐えることができたのだ。
こんな逸話がある。山本昌は日大藤沢高校1年生のとき、手首を鍛えようと2キロのダンベルを自らの小遣いで購入。左で200回、右で100回持ち上げることが日課となった。そして、このトレーニングを現役生活の最後まで30年間も続けたのだ。
同じことをずっと続けられる性格な一方で、変化をいとわないこともまた山本昌の特徴だった。初動負荷トレーニングによって、年を重ねても体が進化し続けた山本昌。その影響はピッチングフォームにも表れ、毎年少しずつフォームは変化し続けた。ただ、唯一変えなかったのは、投球時に右手でためを作る(俗にいう、壁を作る)動作だった。
「変えることを受け入れてもいいが、核となる部分だけはあまり変えない方がいい」(山本昌・山?武司『進化』より)。これが、彼のプロとしての信念だった。
山本昌といえば、ラジコンやクワガタ飼育など、趣味人としてイメージしている人も多いはずだ。実際、ラジコンはかつて全日本選手権にも出場したことがあるほどの腕前だった。
ところが2010年、45歳のときにラジコンを封印。全てを野球に捧げるため、そして本業である野球で運を使うために、大好きな趣味をあきらめたのだ。
趣味の封印以外でも、山本昌の生活は全てが「野球が第一」だった。プロならばあたり前、と思うかもしれない。だが、たとえば自動販売機から飲み物を取り出すときは必ず「右手」、寝ている時に寝返りをうっても左腕が下にくると必ず目が覚めるなど、生活の全てが野球最優先だった。若いときはともかく、40代以降も第一線であり続けられた秘訣が、こんな細かい部分にあったのではないだろうか。
全てを野球に捧げて「50歳登板」という金字塔を打ち立てた山本昌。まずは体を休め、そして封印していた趣味の世界に没頭してもらいたい。おつかれさまでした。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)